【大館観光】国指定名勝・鳥潟会館へ!見事な秋の庭園(前編)

観光
記事内に広告が含まれています。

秋田県大館市にある「鳥潟会館」の紹介記事です。

鳥潟会館の庭園は、池を中心に樹木や庭石が美しく配置され、山から流れる川がが海へ注ぐ風情を表した日本庭園です。

近代庭園として学術的な価値が高いと評価され、2024年(令和6年)に国指定名勝に登録されました。

今回は「秋の庭園・前編」として、その魅力あふれる見どころをご紹介します。

さっそく散策にでかけてみましょう!

スポンサーリンク

鳥潟会館とは

鳥潟会館とは、江戸時代から続く名家・鳥潟(とりがた)家の邸宅と、その美しい「庭園」を合わせた名称です。

庭園

鳥潟会館秋の庭園
鳥潟会館秋の庭園

鳥潟会館の庭園

鳥潟会館の庭園は、池を中心に樹木や庭石が美しく調和し、山から流れ出る川が海へと注ぐ風情を表現しています。

その繊細なデザインと自然との調和が評価され、2024年(令和6年)には国指定名勝として登録されました。

家屋

鳥潟会館主人室

鳥潟会館 主人室

鳥潟家の家屋は、1760年代(江戸時代中頃)に建築された歴史ある建物です。

この家屋は、数寄屋(すきや)造りの様式を採用している建物で、当時の建築技術や美意識を見ることができます。

数寄屋(すきや)造りとは、簡素でありながらも洗練された趣を持っていることが特徴。

その後、1936年(昭和11年)には、鳥潟家の第17代当主である鳥潟隆三(とりがたりゅうぞう)氏によって大規模な増改築が行われました。

この増改築により、住宅と庭園には京風のスタイルが取り入れられ、さらに洗練されたものへとなりました。

京都の伝統的な建築様式や、庭園デザインが、あちらこちらに反映されていて、鳥潟隆三氏の美意識とこだわりが色濃く感じられます。

建物内部のあらゆる工夫から、当時の職人たちの技術力の高さが分かります。

鳥潟家とは

鳥潟家は、1600年代初め(江戸時代)から代々続く大館の由緒正しき名家です。

かつてはこの地域(花岡村)の「肝煎(きもいり)」という重要な大役を務めていました。

肝煎(きもいり)とは

 江戸時代の役職名で、今でいう「村長さん」のような存在。

 村の開発、整備、神社仏閣への寄付などを率先して行い、地域のために尽力、貢献する地主家系のこと。

そんな地域から深く信頼されていた鳥潟家は、のちに学者をはじめとする多くの素晴らしい偉人を世に送り出すことになります。

鳥潟隆三氏とは

鳥潟隆三氏

京都帝国大学 名誉教授 医学博士

鳥潟隆三(1877年~1952年)

 現在の鳥潟会館を造った鳥潟隆三氏。

彼は一体、どのような人物だったのでしょうか?

隆三氏誕生(1877年(明治10年))

鳥潟隆三氏は、1877年(明治10年)、鳥潟精一、静子の長男として函館にて生まれました。

そして、秋田藩花岡村(現・大館市花岡町)生まれである叔父の鳥潟恒吉(つねきち)氏による英才教育のもと、京都帝国大学医学部へと進学し、日本を代表する天才外科医へと登りつめました。

隆三氏のすごいところ3つ

彼の驚くべき実績をまとめると、以下の3つに集約されます。

天皇からの授かり物「恩賜の銀時計」を拝受:

  京都帝国大学(現・京都大学)医学部を、首席・次席レベルの超優秀な成績で卒業。

日本で16番目のノーベル医学賞候補に:

  スイス留学を経て、血清細菌を研究。

  画期的な外用薬「コクチゲン(鳥潟軟膏)」を開発。

  肺結核の手術向上にも大きく貢献。

日本外科学会のトップを2期歴任:

  大阪に自身の病院や研究所を構え、日本の医学界を牽引する名医として活躍。

これほどの偉業を成し遂げた隆三氏ですが、幼少期や多忙な仕事の合間に、ホッと息をつきに訪れていたのが、花岡の鳥潟邸でした。

自身を育ててくれた叔父や両親や叔父が愛したこの大館の土地を、隆三氏もまた深く愛し、のちに贅を尽くした京風の邸宅へと生まれ変わらせることになります。



庭園の見どころ6選

鳥潟会館の庭園には、職人の技と意匠が詰まった素晴らしい見どころがたくさんあります。

今回の記事では、以下の6つのスポットを順番にご紹介していきます!

「鳥潟会館 敷地マップ」もあわせて載せましたので、ぜひ実際のルートをイメージしながら読み進めてみてください。

◆表門(おもてもん)

◆垣根通り

◆主屋

中門

◆東屋(あずまや)

◆五稜池

鳥潟会館 敷地図

鳥潟会館 敷地マップ

大館市役所HPより一部引用

表門(おもてもん)

ここからの記事は、あくまで個人の趣味・素人目線でのレポートです。

もしかしたら誤った情報もあるかもしれませんが、一緒にお散歩しているような気分で、お気楽に読んでいただけたら幸いです!

表門

表門(おもてもん)

鳥潟会館の表門には、腐りにくいヒバと、天然秋田杉が贅沢に使われています。

現在、屋根はトタンで覆われていますが、建築当時はヒノキの樹皮を重ねた「ひわだぶき (檜皮)」という伝統的な技法で造られていたそうです。

手がけたのは、京都を中心に活躍した名棟梁・成行兼太郎氏

表門 扉

門の開き戸の両端にはそれぞれ一本の丸太が使用されています。

よく見ると、節目が多いのが特徴的ですね。

これは、丸太の乾燥によるひび割れを防ぐためではないかと言われています。

本来であれば、木のひび割れを防ぐために「背割り」という技法を取り入れるのですが、それを敢えて省いて、このような丸太を用いたのではないかと考えられます。

上を見上げると、天井の部分にも天然秋田杉が使用されています。

鞍馬石(くらまいし)

そして足元に目を向けると、立派な「乗越え石(のりこえいし)」が。

これは京都の鞍馬石(くらまいし)が使われています。

平安時代から茶人や日本庭園を好む人々から愛されている石ですが、これほどの大きな鞍馬石は珍しいのではないでしょうか。

庭園の中にも多数置かれていました鞍馬石、実際に上を渡り歩いてみると、しっとりとしたキメの細かさが足裏から伝わってくるようでした。

石碑(戊辰戦争を偲ぶ歴史)

津軽援兵宿陣之所

表門をくぐってすぐ右手に見えるのが、「津軽援兵宿陣之所(つがるえんぺいしゅくじんのしょ)」と刻まれた石碑です。

これは1948年(昭和23年)、隆三氏の指示によって建てられました。

大館を舞台にした戊辰戦争の記憶

遡ること1868年、明治の戊辰戦争の際、大館は新政府軍に加わり、旧幕府軍との激しい戦いの舞台となりました。

当時、大館城代であった佐竹大和は、迫り来る盛岡藩の大軍を迎え撃つため、弘前藩(津軽藩)に援軍を要請します。

隆三氏は、この激動の歴史のなかで、遠くから大館のために駆けつけてくれた弘前藩の援軍たちの気持ちに深く思いを馳せ、ここに石碑を建立したそうです。

隆三氏が職人に遺した「美学」

この石碑を建てる際、隆三氏は、職人に対して次の細やかな注文をつけたと言い伝えられています。

・見えない所まで細心の注意を払い、石柱を堅固に建てること

・派手に磨き立てたり、飾り立てたりはせず、上品で高尚に

・簡素な外観に仕上げ、訪れる人が自然と崇敬の心を抱くようにしてほしい

華美にせず、あえてシンプルに。

そんな隆三氏の美意識と、歴史への敬意が静かに伝わってきます。

垣根通り

垣根通り

鳥潟会館の表門(おもてもん)をくぐると、垣根通りが広がります。

この垣根、同じ種類の木のように見えますが、右側がキャラボク、 左側はイチイとなってます。

鳥潟隆三氏のこだわりで、希望に沿って植えられました。

どちらの樹木もイチイ科であり、見ただけでは区別しづらいですが、生息地や葉っぱの生え方などこまかく言えば、違う種類となります。

鳥潟会館のキャラボク

向かって右のキャラボク

キャラボクは、四方八方から葉っぱが生えます。

鳥潟会館のイチイ

向かって左のイチイ

イチイは、規則正しく葉っぱが生えます。

幹も真っ直ぐ伸びます。

いずれも雪の重さに耐えられるほど硬い樹木のため、また雪に押しつぶされても春には復元できるため、雪国でよく植樹されていました。

主屋

鳥潟会館の玄関

玄関

こちらの「旧邸宅」と呼ばれる建物は、江戸時代の中期の1762年(宝暦11年)に建てられた、非常に歴史のある建築物です。

現在の主屋は、昭和11年に鳥潟隆三氏によって大規模な増改築が行われたもの。

隆三氏がこの邸宅に込めた、並々ならぬこだわりが伺える5つの大きな特徴をご紹介します。

◆庭園と建物の一体感

 建物と庭が美しく調和した、一つの世界観を目指して造られています。

◆千利休の思想を反映

 あえて屋根を小さく見せることで、建物が主張しすぎない控えめな美しさを表現。

◆最高峰の建築技術

 2階の茶室には、京都の東本願寺と同じ高度な技術が取り入れられています。

◆すっきりとした外の茶室

 武家茶道である「石州流(せきしゅうりゅう)」を取り入れた、洗練された佇まいです。

◆文化財クラスの完成度

 庭園も含め、近代和風建築の文化財に指定されるほどの高い完成度を目指して造られています。

 

中門(ちゅうもん)

中門(ちゅうもん)

主屋を後ろにして庭園内へ進んでいきます。

すると目の前に「中門」が現れます。

「中門」とは、茶室の中庭へと導くための象徴的な門であり、茶道の精神や美学を体現する大事な場所です。

中門をくぐるということは、日常から非日常へと心を切り替え、静寂と調和の世界に身を置くという意味が込められています。

中門の屋根は杉皮ぶき、天井は杉の丸太と黒竹(クロチク)が使われており、どこか優しげな雰囲気。

手がけたのは、表門と同じく、京都を中心に活躍した名棟梁・成行兼太郎氏です

門の左手にあるサワラの大木で、右奥に見える松の木。

この2つの木が、趣あるコントラストとなっていて素敵だと思ったので、少し引きの構図でカメラに収めてみました。

東屋(あずまや)

鳥潟会館 東屋

東屋(あずまや)

中門を通り抜けて、さらに庭園の奥へと進んでいきます。

すると右手に見えてくるのが、庭園を眺めながら一息つける休憩所「東屋(あずまや)」です。

東屋とは日本庭園によく見られる草ぶき屋根の簡素な造りの建物のことで、壁が少なく開放感が漂っているのが特徴です。

こちらも現在は、草ぶき屋根からトタン屋根となっています。

鳥潟会館 東屋

ふと見上げると、「けろりかん」と書かれた扁額(へんがく)が。

実はこれ、

「この東屋から美しい庭園を眺めていると、日々のストレスや病気が『ケロリ』と治ってしまう」

という意味が込められているのだとか。

遊び心とユーモアが感じられてほっこりしますね!

では、東屋からくるりと反転して池の方へ行ってみましょう。

五稜池(ごりょういけ)

鳥潟会館秋の庭園

庭園の中心部 五稜池

庭園の中心に広がる池は、隆三氏によって五稜池(ごりょういけ)と命名されました。

函館生まれの隆三氏は、自身の雅号(がごう)(本名以外につける風流な名前)に、函館の代名詞でもある「五稜」を好んで使っていたそうです。

州浜(すはま)

日本の蒸し暑い夏を涼やかに過ごすために設けられたこの池には、ある見どころがあります。

それが、洲浜(すはま)という造りです。

洲浜(すはま)とは、玉石をなだらかに敷き詰めることで、潮が引いたあとの美しい砂浜を表現した技法のこと。

写真の左側に作られているのですが、現在は落ち葉や土に埋まってしまっており、残念ながらその玉石を見ることはできませんでした。

桂離宮(かつらりきゅう)の州浜

実は、この開放的で明るい庭園の造りは、明治から昭和にかけて活躍した京都の名庭師「七代目 小川治兵衛氏」が考案したもの。

鳥潟会館の庭園を手掛けた粕谷幸作氏は、その直弟子にあたる人物です。

京都の最高峰の技術と美意識が、この池にも反映されています。

中島(なかじま)

日本庭園の池を眺める際、ぜひ注目してほしいのが、池に浮かぶ小さな島「中島(なかじま)」です。

四方を海に囲まれた島国である日本には、庭園の池に島を浮かべて広大な海を表現する思想があります。

実はこの中島、後から土を持って造られたわけではありません。

水に削られて崩れてしまうのを防ぐため、池を掘る段階で、あらかじめ島になる部分を”削り残して”造られているのです。

職人のその技術力には驚かせるばかりです。

また、池の中に浮かぶ石や周囲の石を景石(かげいし)と言いますが、ここにも、隆三氏のこだわりが隠されているんです。

これらの意思は、遠く離れた福井県の若狭湾(わかさわん)から採取されたもの。

当時はもちろんトラックなどない時代ですから、福井から汽車に乗せて最寄りの花岡駅まで運び、そこからは馬を使ってこの庭園まで引っ張ってきたのだそうです。

そんな大移動エピソードに驚くばかり。

邸宅も庭園も、京都を中心に活躍した一流の職人たちに託して完成させた鳥潟会館。

その仕上がりは、のちに「東本願寺と同じく、技術的には文句の付けようがない名工の造り」と評価されるほどでした。

庭園を見渡すと、隆三氏の本物の美を追求した情熱が伝わってくるようです。

まとめ

いかがだったでしょうか。

「国指定名勝」に登録された鳥潟会館の秋の庭園(前編)をご紹介しました。

一流の名工たちが手がけた意匠、そして鮮やかな紅葉は、素晴らしいものでした。

続く、「秋の庭園・後編」では、庭園を彩る燈籠(とうろう)や、鞍馬石(くらまいし)、社殿の見どころをご紹介します。

ぜひ合わせてチェックして、一緒にお散歩する気分で楽しんでくださいね!

鳥潟会館 秋の庭園

楽天で購入

 

楽天で購入

鳥潟会館の基本情報

施設名鳥潟会館
住所〒017-0005
 秋田県大館市花岡町字根井下156      
TEL0186-46-1009
入館料無料
駐車場あり
20台以上も停められるスペースあります        
開館時間    4月~10月:9時~17時 最終入館は16時半まで
11月~3月:9時~16時 最終入館は15時半まで       
休館日月曜日・年末年始(12/29~1/3)
月曜日が祝日の時は翌火曜日休館