犬の祖先はオオカミだった?秋田犬のルーツは?秋田犬の歴史を知る

文化

犬の祖先については諸説ありますが、近年の研究では「オオカミ」が最も有力であることがDNA検査結果から分かっています。

オオカミと人間、どのようにしてお互いをパートナーとして認め合ったのでしょうか?

また、天然記念物に指定されている秋田犬はどのような歴史を歩んできたのでしょうか?

私の想像を超えた波乱万丈な秋田犬の道のり、その歴史についてまとめました。

 

犬の祖先

犬の祖先と人類は、1万年以上も前から共に生活してきたと考えられています。

その頃の犬は人にとって獲物として扱われていました。

その中で、集団で生活することを得意とするタイプのイヌ科の動物が、人と意思疎通するようになり、次第に高いコミュニケーション能力を持てるようになったのではないかと言われています。

 

あきこ
あきこ

人の生活する場所へ徐々に近づき食べ物をあさったり、時には人から与えられたりしたかもしれません。

あきこ
あきこ

母犬を亡くした子犬を、人が育てることがあったのかもしれません。

 

犬は生物学的にはオオカミやキツネと同じイヌ科に属し、中でもオオカミの亜種イエイヌに分類されます。

他の属性を持つイヌ科の動物との大きな違いは、やはり家畜化されているということでしょう。

犬の家畜化は、紀元前3000年~4000年にはもう始まっていました。

狩猟をメインにして生活していた時代ですね、獲物を捕らえる際の良きパートナーだったようです。

 

 

秋田犬の原型

秋田のマタギ犬

秋田犬の原型は秋田マタギ犬と呼ばれており、今よりも小さく中型の猟犬でした。

秋田マタギ犬とは、マタギが狩りをするときに一緒に付いていき、狩猟のサポートをする犬のことです。

立ち耳」「巻きしっぽ」の特徴を備えており、現在の秋田犬と容姿はほぼ変わらないと言われています。

また雪が付くので毛は短い方が好まれていました。

雪深い山岳地帯でも疲れることなく走り回れる体力を持ち、クマなどの大型の動物にも勇敢に立ち向かう闘争本能を持った性格だったそうです。

 

マタギと秋田マタギ犬の記事はこちら

 

 →マタギとマタギ犬の狩猟生活 秋田犬との関係について

 

 

 

江戸時代~闘犬のはじまり

各種の文献資料を読んでいくと、秋田犬発祥の地である大館、そこの大館城主(佐竹西家)は、武士の士気を養うとして闘犬を好んだと言われています。

白神山地や阿仁森吉地域、奥羽山脈といった大館の周りの山々では狩猟に優れたマタギがおり、マタギ犬が存在していました。

中型犬よりもやや大きく、大きなクマにも恐れず向かっていく精神力を持つマタギ犬のことを気に入った大館城主は大きくて優れたマタギ犬を大館に連れて帰ったそうです。

こうして交配か進み大型化した大館犬と呼ばれる犬が輩出されました。

 

 

 

明治時代~闘犬文化

明治時代になると、闘犬を楽しむ文化は民衆の間にも広がりました。

祭りごとや冠婚葬祭などの集いがあれば自分が飼っている犬を連れていき闘わせる風習があったそうです。

ついには大館市街地に闘犬場が設置され、公的に披露されるほど娯楽化されました。

このような時代の流れとともに秋田犬の純血度は低くなっていきます。

明治維新によって海外から様々な犬種が輸入され、当時の犬は放し飼いが多かったこともあり、日本犬そのものの雑種化が進んでいきました。

 

下の写真は、大正末から昭和の始めにかけて当時の大館町で盛んだった闘犬の様子を描いた絵を刺繍したものです。

当時は、桂城公園にあった市民体育館のステージの幕として使われていましたが、現在はタクミアリーナ内の壁に飾られています。

縦6.5m、横17mにもなる大きな刺繍の織物で、重量は400kgにもなります。

福田豊四郎氏によって作出されました。

福田豊四郎氏は小坂生まれ、新しい日本画の模索と研究に努めた人です。秋田を中心とした作品を数多く残しており、「闘犬の日」は昭和7年の青龍展に出展されています。

 

 

タイトル :闘犬の日

 

 

 

 

大正時代~秋田犬絶滅の危機

西洋犬との交配

 

 

闘犬が盛んに行われていた大館、大正時代の始めに闘犬のイベントとしてやってきたケンカの強い土佐闘犬に秋田犬は惨敗します。

土佐闘犬とは四国犬にブルドックや超大型の西洋犬の血を混ぜた犬種で、当時の秋田犬よりもはるかに大型、口は大きく噛まれても致命傷を負いにくいように皮膚はたるんでいます。

土佐闘犬もまた当時の土佐藩で盛んだった闘犬文化の影響から交配改良された犬でした。

 

闘犬の飼い主たちは少しでも強い犬を作り出そうと、ケンカが強い土佐闘犬との交配を重ねました。

それにより秋田犬の特徴であった「立ち耳」「巻きしっぽ」が失われて土佐闘犬のような形質に変わっていきます。このような犬のことを「新秋田」と呼ぶようになりました。

さらに色々な大型の西洋犬との交配が進められていくにつれて、秋田犬の原型である姿を持つ犬はごくわずかになってしまいました。

 

保存運動

秋田犬の西洋犬との交配が進むに対して、日本犬である秋田犬の血統を保存しなければという認識が広まり、保存運動による秋田犬の純化が始まりました。

日本犬保存運動の中心として活躍した渡瀬教授が、日本犬の危機と保存の重要性を講演や書誌で訴えました。

大正9年(1920年)頃、当時の行政機関から要請を受けた旧東京大学の渡瀬教授は秋田犬における調査を行うため大館に訪れます。おそらく秋田犬を天然記念物に指定するための調査だったと思われます。

しかし大館では秋田犬の雑種化が著しく進んでいたため、「立ち耳」「巻きしっぽ」を備えた秋田犬を見つけられず、天然記念指定は見送られました。

その結果を知った当時の大館町長は、危機感を抱きます。

秋田犬の祖先である秋田マタギ犬の特色を持った犬との「戻し交配」を行い、本来の秋田犬に戻す努力が続けられました。   

 

昭和~秋田犬保存運動

昭和2年(1927年)には大館町長、大館中学校の教員であった小野進(おのすすみ)氏を始め、各著名人の協力のおかげで「秋田犬保存会」が設立されました。

このような活動を精力的に行った結果、昭和6年(1931年)、秋田犬は日本で最初の国の天然記念物に指定されました。

翌年の昭和7年、渋谷のハチ公が新聞記事に載せられて秋田犬の存在が全国的に知られるようになりました。

保存会の会員数も増え「日本犬保存会」も設立されたことにより、甲斐犬、紀州犬、越の犬、柴犬、土佐犬、北海道犬が天然記念物に指定されました。

太平洋戦争~秋田犬絶滅の危機

しかし昭和12年、日中戦争が勃発。秋田犬の純化が安定し始めた矢先のできごとでした。さらに昭和16年、太平洋戦争が始まり、またしても秋田犬に存続の危機がおとずれます。

戦争中は軍用犬以外の犬には捕獲命令が出されました。

秋田犬もまた軍隊の防寒衣料用の毛皮にする目的で捕獲され、食用としても狙われるようになりました。

食糧難の時期にたくさん食べる大型の秋田犬を飼うことなど論外、世間から非難される対象になりました。

実際に犬に食べさせるほどの食料などなかったと思います。

人の目があるところでは飼えなくなった犬をへき地や山奥の猟師にたくすなど、秋田犬を隠す人もいたそうです。

また、捕獲を免除される目的で軍用犬のジャーマンシェパードドッグと交配させた飼い主もいました。

 

 

終戦後~秋田犬の復活にむけて

終戦後、生き残った秋田犬はわずか、特徴を備えた数は20頭あまりだったようです。

戦争を終えて、再び秋田犬の復活が始まります。

終戦から2年後の昭和22年(1947年)、大館市で「秋田犬保存会展」が開かれました。

出展された秋田犬は35頭でした。

秋田犬保存会の資料によると、令和4年に発行した年間の血統書は約3,000頭となっています。そのうち1,000頭が海外で暮らしている秋田犬です。

昭和40~50年は45,000頭だったのをピークに、年々減り続けています。

 

海外でも人気がある秋田犬

戦争中、日本に駐留していたアメリカの兵士にも人気が高かった秋田犬、戦争が終わると日本から秋田犬を連れて帰りました。

この時の秋田犬は独自の進化の道を歩み、「アメリカンアキタ」と呼ばれる犬種になりました。

現在は純血の秋田犬がヨーロッパ諸国、台湾、中国など世界各地で愛犬家に飼育されています。

 

まとめ

秋田犬を始め日本犬の保存を訴える声がやまないのは、たくさんの魅力があるからだと思います。

ものごとを静かに見つめるつぶらな瞳、丸みのある顔で柔らかい表情にピンと立った耳。

寒い冬にも耐えられる優れた毛なみ、力強い意思を感じさせる立ち姿はまさに日本の歴史とともに生きてきた犬であることを表現していると思います。

性格も優しくて情に厚く忠実、信頼関係を大切にする習性をもっています。

昔から備わっている日本人の特徴を秋田犬も持っていると言えるのではないでしょうか。

波乱万丈な道のりを乗り越えてきた秋田犬、秋田犬の未来もまた明るい。

保存会、ブリーダーさん、愛犬家、そして秋田犬の更なる発展を願っています。