【渋谷ハチ公】忠犬ハチ公を愛し、ハチ公に愛された人たち|ハチ公の飼い主まとめ

人物・文化
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渋谷駅に隣接する「忠犬ハチ公像」の前は多くの人でにぎわっています。

11年間の生涯の多くを渋谷駅前で過ごしたハチ公は、晩年にかけて多くの人々に愛される犬となりました。

優しい心の持ち主だったハチ公はどのような人を愛し、どのような人に愛されたのでしょうか。

そんな人々についてまとめました。

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上野英三郎博士(うえのえいざぶろう)

上野英三郎博士とは

上野英三郎博士

上野英三郎教授は、忠犬ハチ公の飼い主として広く知られている人物です。

上野教授とハチ公の物語は、今でも世界中の人たちに感動を与えています。

しかし、このエピソードだけでなく、実は日本の農業分野においても重要な役割を果たした偉大な人物でした。

上野教授は、農業土木の研究に取り組み、日本の農業がどのように発展すべきかを考え、指導的な役割を果たした人物として知られています。

上野教授に関する詳しい内容は、こちらの記事をごらんください。

ハチ公との出会いは、上野博士が52歳のとき。

上野教授の「秋田犬を飼いたい」という強い要望により、かつての教え子のつながりで大館市からハチを夜行列車に乗せ、家族として招き入れました。

しかし、上野博士は53歳の時、突然大学で在勤中に亡くなってしまいます。

ハチ公がやっと2才になろうとしている頃のこと、わずか17か月の付き合いとなってしまいました。

どれくらいハチ公を可愛がったか

上野博士は愛犬家として知られ、洋犬や和犬を含む多くの犬たちと生活を共にしていました。

その中でも、特にハチ公には深い愛情を注いでいたと言われています。

子犬の頃は自分のベッドに寝かせていた

ハチ公は生まれてから1歳になるまでの間、体が弱く、特に胃腸が弱かったため元気に走り回ることができない日々が続きました。

上野博士は以前にも何匹かの秋田犬を病気で失った経験があったので、ハチ公を絶対に死なせてはいけないという強い思いで一生懸命に看病しました。

その看病のおかげで、ハチは丈夫な体となっていきました。

我が子のように育てた

春が訪れると、上野教授の自宅では恒例のお花見会が開かれます。

お花見会の前夜、教授はハチ公をお風呂に入れました。

「明日はお花見会でハチはお披露目されるんだからきれいにしないとね」

という会話が聞こえてきそうです。

その晩、ハチ公は教授と同じ寝室で眠りました。

迎えたお花見会当日、庭には満開の桜。

教授は膝の上のハチ公を撫でながら、来客たちとの会話を楽しんでいました。

教授とハチ公の絆がさらに深まり、新しい思い出が加わった幸せな一日だったと思います。

また、別のエピソードとしては、上野教授が仕事から帰宅すると、ハチを抱き上げて、居間の火鉢のそばに一緒に座るのが日課だったそうです。

先生の話を聞くように寄り添っているハチ。

このような日々の積み重ねが、二人の間に強い絆がうまれたのだろうと思います。

その絆は、ハチ公が上野博士を亡くした後も変わることなく続き、彼の忠実さがあの物語を作ったのだなと思います。

渋谷の忠犬ハチ公の生涯についてはこちらをご覧ください。

上野教授の死因

多忙な日々で中耳炎を患う

大正11年1月、上野教授は、化膿性中耳炎を患い、長期間にわたり苦しい闘病生活を送ることとなりました。

病気はその健康を著しく損ね、8ヵ月にも及ぶ重体状態に陥るほど深刻なものだったようです。

奇跡的にも命を取り留め、その後、徐々に回復へと向かっていったものの、完全に健康を取り戻したわけではありませんでした。

耳鳴りやめまいといった後遺症、上野教授を悩ませる日々が続きます。

家族や生徒たちは彼の健康を心配し、休養を取るよう何度も説得したのですが、上野教授はそれらの声に耳を傾けることなく、こう語ったと言います。

「自分の将来を考える余裕はないよ。他にも考えなければいけない問題が山ほどあるんだ。」

無為にして拾年を生きんよりはむしろ活動の三年を欲する

という上野教授の言葉が、岸一敏「忠犬ハチ公物語」(国立国会図書館所蔵)に残っています。

大学の職務中に突然たおれる

大正14年5月21日、その日は教授会が予定されており、教授は羽織袴という正装で大学へ向かいました。

教授会を終えた後、農学部内の他の教授の部屋を訪れ、軽い会話を交わしたそうです。

しかし、その直後、椅子に腰かけたまま意識を失い、そのまま帰らぬ人となりました。

死因は「脳出血」と診断されました。

ハチ公の愛する主は戻らず、その事実をまだ知らないハチは悲しげに佇み続けます。

この出来事が、後に「忠犬ハチ公」として日本中の人々に知られる物語の始まりとなりました。

上野博士が残したもの

研究内容が未来に行き過ぎていて周りがついてこれない上野ビジョン

農業という分野は、私たちの生活に欠かせない食料を確保するための基盤です。

農業の生産性を向上させるために、貢献した上野英三郎教授は日本の農業土木学の創始者といわれています。

上野教授に関する詳しい内容は、こちらの記事をごらんください。

上野英三郎博士についてまとめ

・明治4年、三重県津市で生まれる

・犬が好きで、何匹も犬を飼っていた

・現東京大学農学科を卒業し、日本の農業土木の発展に貢献した

・上野博士の教え子たちに慕われていた

・ハチとの出会いは博士が52歳のとき

・ハチとの別れは博士が53歳のとき

植木職人「小林菊三郎」さん

小林菊三郎さんとは

上野博士が急逝(きゅうせい)されてからハチ公のお世話をした人です。

渋谷駅前で、上野教授を待つかのように居座り続けたハチ公ですが、その背後には、ハチ公を支え続けた人々の存在がありました。

その中でも特に重要なポジションにいたのが小林菊三郎さんです。

小林菊三郎さんとは、どんな人物なのでしょうか?

また、上野教授との関係は?

——

小林菊三郎さんは、植木職人でした。

菊三郎さんは、明治30年10月、埼玉県児玉郡にて生まれました。

働ける年ごろになると、上野教授の邸宅で庭師として働き、日々の仕事を通じてその腕前を発揮し始めます。

仕事を終えた後には、上野家のお風呂を借りたり、夕食をご馳走になったりするほど上野教授と菊三郎さんの間に、深い信頼関係がありました。

小林菊三郎さんの関する詳しい内容は、こちらの記事をごらんください。

菊三郎さんとハチの関係

菊三郎さんとハチの関係は、ハチが大館から夜行列車に乗ってきて、上野駅に到着したときから始まります。

上野駅までハチを迎えに行ったのは菊三郎さんだったのです。

動物好きとして知られていた菊三郎さんは、子犬だったハチが来た日から可愛がりました。

上野教授の他界後

小林菊三郎さんとハチ

上野教授が他界したことにより、上野教授と深く関わりを持っていた人々の生活は一変します。

上野教授の家族は今までの家に居られなくなり、バラバラになります。

ハチ公も各地を転々とするようになり、なかなか定まらない日々が続きました。

そんな中で、ハチ公を深く思い、献身的にお世話をしたのが小林菊三郎さんとそのご家族でした。

最終的なハチ公の居場所は小林さんの自宅となりました。

小林家は、ハチが安心して過ごせるよう温かく迎え入れたのでした。

皮膚病のハチ公の看病をした

ハチがひどい皮膚病にかかってしまうという出来事がありました。

その状態は非常に悪く、もう助からないかもしれないという悲観的な見方もありました。

でも、小林菊三郎さん家族は諦めることなく、懸命に看病を続けました。

日々の手当ては決して簡単なものではなかったと思います。

でも、奇跡的にハチの皮膚は徐々に回復して元の姿に戻ることができました。

もうこれは、菊三郎さんたちの愛情と努力が実を結んだといえると思います。

ハチ公と小林菊三郎さんの関係

菊三郎さんは、職人気質で寡黙な人物として知られていました。

その性格は、愛想を振りまかず、静かで無口だったハチ公とどこか似ていたのではないかなと感じます。

二人は言葉を交わさずとも心を通わせ、じゃれ合うことがなくても、互いに存在を認め合い、時には支え合っていたのかもしれません。

ハチ公は「一代一主」、つまり一生を通じてただ一人の主人に仕えるという強い忠誠心を持っていました。

その主人こそが上野博士です。

菊三郎さんは、ハチ公の信念を尊重しました。

菊三郎さんが残した言葉に

「”ハチ”の名はやたらつけさせねぇ」

というものがあります。

この言葉には、ハチ公を特別な存在として見ていた気持ちが表れています。

彼にとって「ハチ」という名前は、ただの犬の名前ではなく、一生懸命に生きた忠犬への敬意の象徴だったのでしょう。

ハチ公がこの世を去るその日まで、菊三郎さんは寄り添い続けました。

彼は「ハチ公の第二のご主人」とも称されるべき人だと思っています。

小林菊三郎についてまとめ

・植木職人で上野教授の庭師として働いていた

・上野教授と菊三郎さんの間に、深い信頼関係があった

・職人気質で寡黙なまじめな人

・上京したハチ公を上野駅に迎えにいった

・皮膚病を患ったハチ公を懸命に看病した

・ハチの晩年近くは小林宅でハチ飼った

小林菊三郎さんの関する詳しい内容は、こちらの記事をごらんください。

斎藤弘吉先生(さいとうひろきち)

斎藤弘吉先生とは

弘吉先生はハチ公を有名にした人です。

昭和7年10月、朝日新聞に「いとしや老犬物語」という記事を投稿したことで渋谷駅のハチ公は忠犬として有名になりました。

斎藤弘吉先生

明治32年8月、山形県鶴岡市の裕福な呉服屋の家庭に生まれ育ちました。

東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学し油絵を専攻しましたが才能はそれだけで終わらず、日本建築・造園を始めとする芸術や古美術に関する仕事に携わっていました。

東京芸術大学を卒業後は弘前市の野砲第八連隊に入隊しましたが、健康を損ない除隊。

除隊後の病気療養中に日本犬を飼おうと思い立ち、日本犬を探し回りましたがコレだと思う日本犬がいないことに気が付きます

弘吉先生は日本犬が絶滅の危険にさらされていることを知り、日本犬の保存活動を行い日本犬に関する研究を行いました。

ハチ公との出会い

一番最初に弘吉先生がハチ公に会ったのは上野博士が勤めている駒場の大学の校門前でした。

まるまると肥った立派な秋田犬が後ろ足で耳を掻いているところを見かけ、あまりにも見事な姿に弘吉先生は足を止めます。

そしてハチ公を眺めながら「犬を飼うならこのような犬を飼いたい」と思いました。

それから約3年後の1928年(昭和3年)、弘吉先生とハチ公は再会します。

弘吉先生がバスの中から渋谷駅の近くを歩いているハチを見つけました。

この時期、弘吉先生は犬の戸籍を作る活動に尽力していたこともあり、「あ、あの立派な犬」と思いバスを下車しハチ公の跡を追いました。

ハチ公が帰った先は当時飼われていた小林菊三郎さんの家でした。

小林菊三郎さんは上野博士邸宅の庭の手入れをしていた人で、この方もまたハチ公のことを大切に思い育てた人です。

弘吉先生は菊三郎さんからハチ公の生い立ちを聞き、それ以来ハチ公を見守るようになりました。

ハチを一躍有名にした弘吉先生の記事

渋谷駅で主人の帰りを待っていたハチでしたが、事情を知らない人たちがハチのことを邪険に扱っていることを知り、心を痛めた弘吉先生は「ハチの事情を知り、大切に接してもらいたい」との願いからハチを紹介する記事を朝日新聞に投稿しました。

いとしや老犬物語

今は世になき主人の帰りを 待ちかねる7年間

この記事がきっかけでハチは忠犬ハチ公として一躍有名になります。

記事の内容—–

東横電車の渋谷駅、朝夕真っ黒な乗り降り客の間に交じって人待ち顔の老犬がある。秋田雑種の今年に入って11才のハチ公は犬としては高齢だが、大正15年の3月に大切な育ての親だった駒場農大の故上野教授に逝かれてからありし日のならわしを続けて、雨の日雪の日の7年間をほとんど1日も欠かさず、今はかすむ老いの目をみはって帰らぬ主人を待ち続けているのだ。

ハチ公にとっては主人の死などはあり得ない事実に違いないのだ。通りがかりの人々もいつしかこの事情を知ってハチ公の心根をあわれみ、売店でこま切れや何かを買い与えてなぐさめてゆく人もいる。

浅草あたりの人が一度上野教授の家からハチ公をもらって飼ったことがあるそうだが、渋谷の土恋しくその日のうちに戻ってきて、今では近所の植木屋さんが飼い主となり、ハチ公の死後の埋葬料まで決まっているという話。

この人気者のハチ公の、もう一つの素晴らしいところがけんかの仲裁。弱いものいじめをしている犬がいると、ハチは黙ってその巨大な背中をケンカの真ん中へ割り込んでいく。それでもきかぬ強気の犬に対してはひと噛み。だが、相手がしっぽを巻いて逃げていくのを追いかけることをしない。とは、ちょっと風変わりな親分である。

—–

といった記事が昭和7年10月に朝日新聞の記事として載りました。

いくつか史実と異なる部分もありますが、このような内容の記事でした。

史実と違う点

・東横電車の渋谷駅 → 山手線の渋谷駅

・秋田雑種 → 秋田犬(弘吉先生が間違えたものではなく、新聞に直接載せた記者が間違えたもの。左耳が垂れていたことから勘違いし雑種と書いたが後に訂正された)

・大正15年3月 → 大正14年5月

・7年間 → 5年間

・埋葬料 → 埋葬料は決まってない。小林さんはハチ公の食費、予防接種など飼育に必要なお金を八重子夫人に請求したことはない。

ハチの銅像と剥製

弘吉さんは渋谷のハチ公銅像を作る橋渡しをしました。

銅像を作った安藤照彫刻士と斎藤弘吉先生は同時期に東京美術大学に在学していたことから、2人は前々から顔見知りでした。

安藤照さんがハチ公の銅像を作りたいを弘吉先生に申し入れ、弘吉先生が菊三郎さんに話を通しました。

銅像を完成させるまでは世間といささか揉め事もありましたが、弘吉先生の尽力によって完成することができました。

弘吉先生は、ハチの生存中に体の各部を細かく計測していました。

ハチが亡くなった後に剥製が作られることが決まり、その際は弘吉先生のハチの生体測定値を元にして作られました。

剥製を作った坂本剥製師は自他ともに認める技術を持っており、完成品は傑作品と言われました。

弘吉先生が残したもの

弘吉先生は日本犬保存会を創立した人で、日本から消えようとしている日本犬を残すため、日本犬の保存に貢献した人です。

この人がいなければ現在の日本犬の姿はないのではないかと思っています。

弘吉先生は日本中を歩き回り、犬戸籍を作り、日本在来犬を飼っている飼い主同士が知り合うことで日本犬の血統を守ろうと考えました。

さらに弘吉先生は日本犬の祖先、犬のルーツについて研究した人でした。

当時DNA鑑定など存在しなかった時代に犬とオオカミとの関係について唱え、骨格等を計測し本を出版したその本はあまりにも専門的過ぎて、当時は誰からも理解得なかった内容だと言われています。

安藤照彫刻家(あんどうてる)

安藤照先生とは

安藤照さんは渋谷のハチ公像を作成した人です。

明治25年、鹿児島市で生まれました。

斎藤弘吉先生と同じ時期に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学し、彫刻において在学中から展覧会に出展、数々の賞を受賞します。

銅像研究のために欧州へ渡るなど、才能にあふれた彫刻家でしたが東京大空襲により惜しくも命を落としてしまいました。

渋谷のハチ公像の他の代表作としては鹿児島市の西郷隆盛像が挙げられます。

ハチとの出会い

安藤照さんが渋谷駅付近を歩いていた時、目に留まったのは少し先から自分のところに歩いてくるハチでした。

ハチは安藤照さんの前まで来ると前足を伸ばしてどっかりと座ります。

その雄大さに安藤照さんは見とれてしまいました。

この犬がハチだと気付いた安藤さん

「これがあの有名なハチ公だな」と叫び、頭や体をなでてあげます。

ハチのことを好きになった安藤さんは毛並みや肉付き、骨格の感触を思い出しながら、ハチを彫刻にしてみたいと思ったのでした。

ハチをアトリエへ

安藤さんと斎藤弘吉さんが東京美術学校を通して友人だったことから、ハチが銅像になるのに時間はかかりませんでした。

弘吉さんからハチの身の上話を聞き、今は菊三郎さんのところで飼われているということを知った安藤さんはハチの真心に感激します。

ハチの彫刻を作りたいという気持ちを弘吉さんを通して菊三郎さんへ伝えたところ、菊三郎がさっそく安藤さんのアトリエに連れてきてくれました。

安藤照さんはハチを色々な形に座らせて眺めていましたが、やはり一番最初にハチと出会ったときの感動が忘れられず、その時の姿を彫刻することにしました。

そして昭和9年4月、完成した銅像の除幕式が行われました。

ハチを見守った多くの人たち

当時は、犬はどこでも放し飼いだったため、食用や毛皮用の目的で捕獲される犬が多くいました。

ハチも何度も捕獲されましたがその度に渋谷駅周辺の人たちが守りました。

代々木にある交番の巡査は捕まったハチを何度も取り戻しました。

駅そばにあった小学校の用務員さんは子どものように可愛がりハチの好きな食事を作りました。

菊三郎さんが忙しいときに代わりに遊んで運動させていた新聞配達員。

朝食や水を与えていた駅周辺の商店街、食堂を営んでいた人たち。

景気が次第に悪くなっていく中にも関わらず、名前を残さない優しさあふれる人たちが、ハチが有名でなかったときから「ハチ、ハチ」と言って可愛がっていたのでした。

八重子夫人(やえこふじん)

上野英三郎博士の伴侶となる方です。

ハチ公の幸せのため、ハチ公を守るために自分のことよりもハチ公の幸せを考えた人です。

ハチ公もまた生涯にわたって八重子夫人を慕い、彼女を愛しました。

まとめ

いかがだったでしょうか。

今回は忠犬ハチ公を愛し、ハチ公に愛された人々についてまとめました。

ハチ公と共に生き、愛した人たちは戦前、戦中、戦後という3つの世界を生きた人たちでした。

3つの世界その時々でハチは様々に評価されます。

お金目当てで利用されたこともありましたし、ハチの事情を知らずに非難する人もいました。

そんな中、ハチを愛し愛された人たちは、どんな世界にいてもハチ公の幸せを1番に考え思いやっていたのだと思います。

今回、大館に関係しているということでハチ公に注目してまとめましたが、犬と人の間にある愛情は大昔から確立されていたものであって、ハチ公とハチ公に関係する人々が特別愛情深かったということではありません。

時代が戦争直前であったことや、日本犬や秋田犬の確立が危険にさらされた時代だったこと、きちんとした記録が残っていた時代だったからという理由からハチ公は誰もが知っている忠犬となりました。

犬を守るために尽力した人たちがいる反面、犬を利用した時代があったことを犬と人間の歴史をたどっていく中で知ることができました。

また、秋田犬だけでなく、柴犬、甲斐犬、紀州犬、四国犬、北海道県など細かく分類すると数多くの地犬が存在していることを知るとともに、このような日本犬の血統を大切にしなければいけないと思いました。

あわせて読みたい

渋谷の忠犬ハチ公の生涯についてはこちらをご覧ください。

秋田犬の歴史についてはこちらをご覧ください。