【秋田県大館市】真田幸村の墓|幸村に協力した武将がいた|伊達政宗との関係|生存説第3弾!

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大館市の一心院の境内には「信濃屋長左衛門事・眞田左衛門佐幸村之墓」と刻まれた墓石があります。

信濃屋長左衛門事・眞田左衛門佐幸村之墓

しなのや ちょうざえもん こと ・さなだ さえもんのすけ ゆきむらのはか

なぜ大館に幸村のお墓が?

と思った私は、このお墓が真田幸村のお墓であるという前提で調査し、考察しました。

その結果、幸村生存に協力した武将がいたのではないかという結論に至りました。

本記事は、一般的な歴史書と違った視点でまとめています。

ので、お散歩する気分でご覧いただけたら幸いです。

真田幸村に関係する史実と、生存説については、こちらの記事をごらんください。

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真田幸村こと真田信繁とは

真田幸村は戦国時代の武将として、とても人気のある武将の一人ですね。

有名なのが大阪冬の陣夏の陣の戦いです。

総大将”徳川家康”を自害寸前にまで追い詰めたという伝説が語られています。

その他にも多くの名言や伝説を残している武将で、ただ強かっただけでなく、忠義な振る舞い、生き方がとてもカッコイイところが人気の理由となっています。

2016年にNHK大河ドラマ「真田丸」でも話題になりました。

今でも、彼が残した多くの名言や伝説が語り継がれています。

幸村生存に協力した武将たち

真田幸村が大坂夏の陣の戦いから脱出し、生き延びることができたのは、さまざまな武将の協力が必要だったと思います。

そこで、幸村生存説に関わった武将たちを挙げました。

佐竹義宣(さたけよしのぶ)

まずはこちらの方。

佐竹義宣

佐竹義宣(よしのぶ)は初代秋田藩藩主となった人で、家康に常陸国(ひたちのくに)茨城から秋田へ行きなさいと命令された大名です。

佐竹氏と幸村との間で、最も深く関わったのは、佐竹義宣の弟・岩城宣隆(いわきのぶたか)です。

岩城宣隆(いわきのぶたか)は、幸村の四女お田(おでん)姫を側室として迎えた人です。

お田(でん)姫は、岩城宣隆(いわきのぶたか)との間に男子を授かり、男子は亀田藩(秋田県由利本荘市)藩主となりました。

岩城宣隆にとって幸村はお義父さんという関係ですね。

また、幸村の三男である三好幸信(みよしゆきのぶ)も、亀田藩(秋田県由利本荘市)の元で家臣となりました。

どういった馴れ初めでおでん姫岩城宣隆がくっついたのかは明らかにはなっていませんが、兄の佐竹義宣(よしのぶ)がきっかけであっただろうし、佐竹義宣(よしのぶ)幸村の関係が良好でなければ実現しない事であることは確かです。

真田家と佐竹家がいつからどのようにして繋がりを持っていたのかは定かではありませんが、幸村や義宣の親の親の代から、代々親交があったのかもしれません。

また、幸村佐竹義宣に共通して仲が良かった人物といえば石田三成

義宣(よしのぶ)が関ヶ原の戦いで石田三成の西軍に付かないまでも、東軍にも加勢しなかったのは義宣三成と深い親交があったからでした。

ある時、義宣が上司にとがめられたとき、助けてくれたのが石田三成なんだそう。

そのようなことを恩に持っていた義宣、あるとき三成の暗殺計画があった際に助けたのが佐竹義宣だったという話が語り継がれています。

三成の暗殺が施行されるべくある夜のこと、佐竹義宣は、石田三成を女性に変装させてその場から逃亡させました。

真田家としては、三成の石田家と遠縁の中であったことがきっかけで、幸村が大阪城に入った際に、三成にお世話になったことから豊臣秀吉の下で親交が深められていました。

佐竹氏と真田氏の共通点は石田三成であり、

徳川家、豊臣家の手前、オープンにはしていないものの深い親交があったのではないでしょうか。

石田三成を介して、真田氏と佐竹氏に面識があり2人とも三成に対して恩恵を持っているのならば、同志といえるかもしれませんね。

佐竹義宣は幸村に好意的であり、徳川の捜索から守った可能性はあると考えられます。

また、幸村の四女お田(おでん)は能代で男子を出産しています。

能代は大館に近い場所、もしかしたら義宣の粋な計らいで、幸村は娘のおでん姫と孫の男子に会うことができたかもしれません。

石田三成

石田三成

豊臣秀吉に仕え、豊臣政権に大変貢献した人で人気のある武将の一人です。

秀吉が亡くなった後に関ヶ原の戦いで徳川軍に敗れました。

三成は中央政権にいる武将だけでなく、地方大名の名誉が保てるよう働いたとても面倒見の良い人物でした。

徳川時代に石田三成の評判は下がっていますが、人脈が無かったとか嫌われたとか優しくないとか云われたこともありますが、そんな人ではないことが数少ない文献や手紙から分かっています。

幸村が人質として大阪城に入った際、三成と幸村は遠縁ということもあり親しい仲となりました。

また成と幸村の兄信之とも手紙のやりとりが行われていることから、真田家と石田家が友好関係の間柄であったことが分かります。

関ヶ原の戦い後、三成の遺族も処罰されると思いきや6人の遺児全員が生き残っています。

その中の次男重成と三女辰姫は、関ヶ原合戦後、津軽藩(弘前市)の津軽為信(つがるためのぶ)のもとに迎えられました。

津軽為信(つがるためのぶ)

津軽為信はひげが濃い―ことでも有名です

津軽為信もまた、上司からおとがめを受けたときに石田三成に助けてもらったことがありました。

その恩義に報いるべく、津軽為信が三成の遺児2人を引き取ったのでした。

引き取られた重成と辰姫は津軽家に大切に育てられました。

危険を顧みず三成の遺児を引き取る津軽氏には感銘を受けます。

そこで、幸村と津軽為信氏の関係ですが、佐竹氏と同様に、三成を介して幸村と津軽氏の間に面識があったのではないかと考えられます。

これは幸村の逃亡ルートに津軽藩が入っていることから推測できます。

明石全登(あかしてるずみ)

明石全登(てるずみ)は、戦国時代に活躍した武将であり、キリシタン大名としても知られています。

また、石田三成の家臣として仕えたことでも有名です。

関ヶ原の戦いでは西軍に参戦したものの、西軍の敗北により浪人の身となってしまいました。

当時、キリスト教を信仰することは徳川家康に禁止されていましたから、大坂の陣では立場的に豊臣軍に付くことになります。

明石氏は全国各地からキリシタン兵士を集め、徳川家康の本陣を狙って果敢に突撃を行いました。

しかし、あと一歩のところで味方は次々と総崩れ、大阪城は落城となりました。

この時以降、明石全登の消息は不明となります。

ここからが、明石全登の逃亡説ですが、

逃亡先は、薩摩とも、東北地方とも言われています。

有力なのは、仙台藩の伊達政宗のもと。

しかし、徳川軍の執拗な明石狩りが行われると、仙台藩においてもかくまいきれず、さらに北へ逃亡し、津軽藩(弘前)に居をかまえました。

その時の津軽藩(弘前)藩主は「津軽為信」です。

一時的ではありますが、徳川軍だった伊達政宗が、なぜ豊臣軍だった明石全登をかくまったのかは、謎につつまれています。

津軽に身を置いて3年後、明石全登は毒殺されてしまうんですね。

しかし、長男、次男、三男が津軽藩から矢立峠を越えて大館の比内町に居住しました。

この逃亡ルートは幸村の逃亡ルートと共通するものがあります。

明石全登の子孫で有名な人は、外交官、国際公務員、国際連合事務次官などを歴任した、比内町出身の明石康(あかしやすし)さんがいます。

伊達政宗(だてまさむね)

伊達政宗

伊達政宗は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した有名な大名で、仙台藩の初代藩主として知られています。

東北地方の発展に大きく貢献した大名で、人気のある武将の1人です。

また、独眼竜という異名を持っている他に、料理好きで、おしゃれで、カリスマ性があって、カッコイイ風貌から、伊達男という言葉が生まれました。

そんな伊達政宗ですが、大坂夏の陣では徳川家についた武将でした。

にも関わらず、なぜ、どうやって真田幸村に協力したと言われているのでしょうか?

大坂夏の陣での謎な行動

伊達政宗は、大坂夏の陣では徳川幕府として参戦した武将でした。

ところが、同じ徳川幕府側である「水野勝成」軍のことを鉄砲で撃って「水野勝成の神保軍300名」を全滅させたと言い伝えられています。

その理由は諸説あります。

・伊達政宗と水野勝成の仲が悪かったから

・伊達政宗が真田幸村と戦いたくなかったから

・伊達政宗自身の兵力を傷つけたくなかったから

この非常事態を目撃した徳川軍、豊臣軍の両者ともに多く、味方撃ち話は確かなようです。

そのおかげで、真田幸村軍と明石全登(てるずみ)軍は、徳川軍の攻撃を逃れらたとのこと。

まるで真田幸村と明石全登(てるずみ)の脱出を援護したとも言えるような行動をとっています。

敵であろうと助けるとなれば助けるし、味方でも納得いかなければ味方撃ちする。

というのが伊達政宗の考え方なのかもしれません。

幸村の子どもの面倒をみる

伊達政宗は、真田一族存続の救世主となった人物です。

大阪夏の陣の際、幸村は二女お梅、三女お菖蒲、二男大八伊達政宗の側近である片倉小十郎景綱と、息子の片倉重綱に託しています。

大阪城が落城しようとする日、幸村は手紙を添えて、伊達政宗の本陣の元にお梅と付き人を差し出しました。

真田の抜け穴を使ったのかもしれません。

お梅もさぞ怖かったことでしょう、敵陣のどんな人かも分からない人の元へ行くのは。

幸運なことに、伊達政宗、片倉小十郎景綱と、息子・片倉重綱に受け入れられたのでした。

さすが伊達政宗、そして人を見る目がある真田幸村です。

お梅は伊達家側近のエースである片倉重綱の継室となりました。

と、同時にお梅の妹・お菖蒲と、弟・大八も片倉家に扶養されました。

お梅の弟・大八は後に「片倉守信」と名乗りましたが、大八以降の子孫からは姓を「真田」に戻しました。

「仙台真田」の家系は現在も続いています。

徳川家からの疑いの目をかわし、伊達家と片倉家に守られてきた幸村の子どもたちでした。

その後、お梅はというと、体が弱かった正室から妹のようにとても可愛がられました。

正室が亡くなる際、正室はお梅にこれからのことを頼みます。

「私の一人娘と夫・重綱の後添えをお願いね」と。

お梅は正室の意思を守り、残した言葉通り正室の娘を育て、重綱とともに片倉家を支えました。

まとめ

今回は、真田幸村が生き延びた説にあたって関わったであろう武将たちを紹介しました。

もしこのようなことが水面下で行われていたとしたら…ということに思いをはせて。

幸村という人物は、徳川軍や豊臣軍といった枠を超えて、多くの武将たちに深い信頼関係を築いていたのかもしれませんね。

幸村自身や幸村の兄、父、祖父たちの振る舞いや人柄が、立場を超えた絆を生んだのかもしれません。

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