大館市の一心院の境内には「信濃屋長左衛門事・眞田左衛門佐幸村之墓」と刻まれた墓石があります。
信濃屋長左衛門事・眞田左衛門佐幸村之墓
しなのや ちょうざえもん こと ・さなだ さえもんのすけ ゆきむらのはか

なぜ大館に幸村のお墓が?
と思った私は、このお墓が真田幸村のお墓であるという前提で調査し、考察しました。
その結果、幸村生存に協力した武将がいたのではないかという結論に至りました。
本記事は、一般的な歴史書と違った視点でまとめています。
ので、お散歩する気分でご覧いただけたら幸いです。
◆真田幸村に関係する史実と、生存説については、こちらの記事をごらんください。
歴史書とは違う、もう一つの歴史!
真田幸村こと真田信繁とは

真田幸村は戦国時代の武将として、とても人気のある武将の一人ですね。
有名なのが大阪冬の陣と夏の陣の戦いです。
総大将”徳川家康”を自害寸前にまで追い詰めたという伝説が語られています。
その他にも多くの名言や伝説を残している武将で、ただ強かっただけでなく、忠義な振る舞い、生き方がとてもカッコイイところが人気の理由となっています。
2016年にNHK大河ドラマ「真田丸」でも話題になりました。
今でも、彼が残した多くの名言や伝説が語り継がれています。
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幸村生存に協力した武将たち
真田幸村が大坂夏の陣を脱出し、密かに生き延びていたとすれば、それを影で支えた協力者の存在が不可欠だったはずです。
幸村の生存に関わったとされる主な武将は、以下の5名です。
・伊達政宗
・明石全登
・石田三成
・佐竹義宣
・津軽為信
今回は、「石田三成」・「佐竹義宣」・「津軽為信」の2名にスポットを当て、なぜ協力者と考えたのかその理由を詳しく解説します。
石田三成

石田三成
結論から言うと、石田三成(以後、三成)は、幸村の逃亡に深く関わった最重要人物だと考えられます。
幸村にとって三成は、血のつながらない叔父であったこと、幸村の兄・信之とは十何通もの手紙のやり取りをしていたこと。
このようなことから、幸村と三成の直接的な親交があった証拠が残っていないものの、何のわだかまりのない間柄であり、幸村が人質として大阪城に入った際に親しくなったのではないかと考えられます。
少なくとも、真田家と石田家には友好関係が築かれていたことは確かでしょう。
そこで、
「三成がどのようにして幸村逃亡に協力したのか」
という解説は一回置いておきます。
さて、石田三成は豊臣秀吉に仕え、豊臣政権に大変貢献した人で人気のある武将の一人です。
秀吉が亡くなった後、関ヶ原の戦いで徳川軍に敗れました。
三成は中央政権にいる武将だけでなく、地方大名の名誉が保てるよう働いたとても面倒見の良い人物でした。
徳川時代に石田三成の評判は下がっていますが、人脈が無かったとか嫌われたとか優しくないとか云われたこともありますが、そんな人ではないことが数少ない文献や手紙から分かっています。
佐竹義宣(さたけよしのぶ)
まずはこちらの方。

佐竹義宣
佐竹義宣(よしのぶ)は初代秋田藩藩主となった人で、家康に常陸国(ひたちのくに)茨城から秋田へ行きなさいと命令された大名です。
佐竹氏と幸村との間で、最も深く関わったのは、佐竹義宣の弟・岩城宣隆(いわきのぶたか)です。
岩城宣隆(いわきのぶたか)は、幸村の四女お田(おでん)姫を側室として迎えた人です。
お田(でん)姫は、岩城宣隆(いわきのぶたか)との間に男子を授かり、男子は亀田藩(秋田県由利本荘市)藩主となりました。
岩城宣隆にとって幸村はお義父さんという関係ですね。
また、幸村の三男である三好幸信(みよしゆきのぶ)も、亀田藩(秋田県由利本荘市)の元で家臣となりました。
どういった馴れ初めでおでん姫と岩城宣隆がくっついたのかは明らかにはなっていませんが、兄の佐竹義宣(よしのぶ)がきっかけであっただろうし、佐竹義宣(よしのぶ)と幸村の関係が良好でなければ実現しない事であることは確かです。
真田家と佐竹家がいつからどのようにして繋がりを持っていたのかは定かではありませんが、幸村や義宣の親の親の代から、代々親交があったのかもしれません。
また、幸村と佐竹義宣に共通して仲が良かった人物といえば石田三成。
義宣(よしのぶ)が関ヶ原の戦いで石田三成の西軍に付かないまでも、東軍にも加勢しなかったのは義宣が三成と深い親交があったからでした。
ある時、義宣が上司にとがめられたとき、助けてくれたのが石田三成だと言われています。
そのようなことを恩に持っていた義宣、あるとき三成の暗殺計画があった際に助けたのが佐竹義宣だったという話が語り継がれています。
三成の暗殺が施行されるべくある夜のこと、佐竹義宣は、石田三成を女性に変装させてその場から逃亡させました。
真田家としては、三成の石田家と遠縁の中であったことがきっかけで、幸村が大阪城に入った際に、三成にお世話になったことから豊臣秀吉の下で親交が深められていました。
佐竹氏と真田氏の共通点は石田三成であり、
徳川家、豊臣家の手前、オープンにはしていないものの深い親交があったのではないでしょうか。
石田三成を介して、真田氏と佐竹氏に面識があり2人とも三成に対して恩恵を持っているのならば、同志といえるかもしれませんね。
佐竹義宣は幸村に好意的であり、徳川の捜索から守った可能性はあると考えられます。
また、幸村の四女お田(おでん)は能代で男子を出産しています。
能代は大館に近い場所、もしかしたら義宣の粋な計らいで、幸村は娘のおでん姫と孫の男子に会うことができたかもしれません。
津軽為信(つがるためのぶ)
関ヶ原の戦い後、三成の遺族も処罰されると思いきや6人の遺児全員が生き残っています。
その中の次男重成と三女辰姫は、関ヶ原合戦後、津軽藩(弘前市)の津軽為信(つがるためのぶ)のもとに迎えられました。

津軽為信(つがるためのぶ)
津軽為信はひげが濃い―ことでも有名です
津軽為信もまた、上司からおとがめを受けたときに石田三成に助けてもらったことがありました。
その恩義に報いるべく、津軽為信が三成の遺児2人を引き取ったのでした。
引き取られた重成と辰姫は津軽家に大切に育てられました。
危険を顧みず三成の遺児を引き取る津軽氏には感銘を受けます。
そこで、幸村と津軽為信氏の関係ですが、佐竹氏と同様に、三成を介して幸村と津軽氏の間に面識があったのではないかと考えられます。
これは幸村の逃亡ルートに津軽藩が入っていることから推測できます。
まとめ
今回は真田幸村生存説に関わった武将「佐竹義宣」と「石田三成」「津軽為信」を紹介しました。
もしこのようなことが水面下で行われていたとしたら…ということに思いをはせて。
幸村という人物は、徳川軍や豊臣軍といった枠を超えて、多くの武将たちに深い信頼関係を築いていたのかもしれませんね。
幸村自身や幸村の兄、父、祖父たちの振る舞いや人柄が、立場を超えた絆を生んだのかもしれません。





