秋田県大館市の一心院の境内には「信濃屋長左衛門事・眞田左衛門佐幸村之墓」と刻まれた墓石があります。
信濃屋長左衛門事・眞田左衛門佐幸村之墓
しなのや ちょうざえもん こと ・さなだ さえもんのすけ ゆきむらのはか

大坂夏の陣で散った真田幸村ですが、ひそかに真田幸村の生き延び説が語り継がれています。
この記事では、生き延び説について考察します。
真田幸村とは

真田幸村は戦国時代の武将として、とても人気のある武将の一人です。
真田幸村に関係する史実については、こちらの記事をごらんください。
本記事は、前回の記事をさらに深掘りし、より具体的な内容を考察する第2弾としてお届けします。
大阪夏の陣後の幸村の行方
真田幸村の最期については、定説といくつかの異説があります。
定説~大阪夏の陣で討たれた~
異説その1~九州へ逃亡した~
異説その2~九州から東北地方へ渡り、大館で暮らした~
詳しくは第1弾をご覧ください。
なぜ生存説が唱えられるのか?~考察~
幸村の生存説があるのは、大坂夏の陣で討ち死にした後も幸村が生きていた痕跡があるからなのでしょう。
一体、どのような痕跡があるのでしょうか?
幸村の最期の確証がない
幸村の最期ですが、安居神社の一本松の下で休んでいたところ、首狩り隊として出ていた越前藩西尾宗次に見つかり、討たれた。
と伝えられています。
大阪城が落城し、大坂夏の陣が終わると、安居神社で捕らえた幸村も含め、「我こそは幸村なり!」と言って討ち取られた幸村の影武者たちの首検証が行われました。
しかし、首検証で並べられた武将たちの損傷が激しく、誰が本当の幸村かどうか見定められなかったといわれています。

ですので、幸村の最期については、ナゾが多く残されているということになります。
☆☆☆
ここで「もし私だったら…」の私情を入れますと、これだけ並べて幸村の首はありませんでしたって…言えません(汗)
「おそらく、こちらです」と。
「幸村も豊臣一族も全滅しました、大阪城で秀頼の焼〇体が確認されました。
我が徳川家の完全勝利でございます。」
って徳川家の勝利宣言をしてしまいます。
だって徳川の勝利は一目瞭然、叶えたいものは手に入っていますし。
☆☆☆
真田の抜け穴の存在
真田伝説として語られているものの1つが「真田の抜け穴」です。
大阪の三光神社、上田城、九度山などに「真田の抜け穴」と言われるものが各地に存在しています。
ウソみたいなホントの話。
まさか…ほんとに…?
でも、もしかしたら…って想像すると面白いですよね。
幸村の生存説に真田の抜け穴が関係するとしたら、「大阪の三光神社の抜け穴」が有力ですが、抜け穴にちなんで、他の「真田の抜け穴」も提示したいと思います。
大阪の三光神社の抜け穴

大坂の三光神社
大阪市の三光神社にある「真田の抜け穴」は、大阪城と三光神社を結ぶ秘密の通路として、真田幸村が掘ったと言い伝えられています。
この抜け穴の伝説が真実だとしたら、大坂夏の陣の際、いざというときのために脱出できるよう、利用された可能性があります。
しかし、現在ではその抜け穴は途中で閉ざされており、大阪城と実際に繋がっているかどうかを確認することはできません。
大阪城が落城した後、徳川氏によって新たに徳川大阪城を再建した際に、この抜け穴をふさいだという説もあります。
現時点では、調査が進められる話もないため、伝説の真相はいまだナゾのままです。
ただ、写真でも分かる通り、扉には真田家の家紋である六文銭がありますね。
歴史的事実とロマンが交錯する興味深い物語です!
上田城の真田井戸

上田城の真田井戸
大坂夏の陣とは少しずれますが、上田城にも「真田の抜け穴」伝説が存在します。
上田城は、幸村の父・真田昌幸によって築かれた名城です。
真田昌幸は、優れた戦略家であり、戦国武将たちの間でも一目置かれていました。
特に、籠城戦に優れた仕組みを持ったお城であり、徳川軍を2度も撃退した上田合戦が有名です。
圧倒的な兵力を持つ徳川軍を退けるという快挙は、真田家の名声と上田城の重要さが分かった戦いでした。
上田城の真田井戸は、上田城の敷地内にあり、深さ約16メートルもありますが、当時は抜け穴であってお城の外につながっていたという伝説があります。
敵に包囲された際には、この抜け穴を通じて食料を運び込んだり、城から脱出したりする手段として活用されたと伝えられています。
九度山の真田古墳

九度山の真田古墳
九度山の真田古墳は、謹慎生活を送っていた九度山から大阪冬の陣へ参加するため、大阪城へ行くときに利用した抜け穴だと云われています。
実際は6世紀に造られた古墳でしたが、このような伝説を生み出したことから、「真田古墳」と名付けられました。
九度山で村人たちの厳しい監視を受けながらも、一晩のうちにその姿を消し、突如として大阪城に現れたという話は、まさに伝説として語られるものですね。
脱出劇がどのように実現したのかについては、いまだナゾのまま。
密かに計画していて、抜け穴を使ったのか
監視されているはずの、地元の人の協力があったのか
謎めいた魅力がありますね。
真田氏の史実・系図が現存している
真田氏と関係がある一族の家系図と歴史書には、真田幸村に関係する事が記述されています。
その家系図には、幸村の始祖となる海野(うんの)氏のことから記述されています。
この事に大変興味をもった、大正時代に活躍した東洋史学者がいました。
その学者は、大館市出身の長井金風(ながいきんぷう)氏。
長井金風(ながいきんぷう)氏は、真田氏の歴史書や、当時は存在していた古文書をもとにして幸村が生存していた説を唱えました。
これがきっかけで、大館市を中心に真田幸村の研究がされるようになりました。
大正8年、弘前新聞の大館支局の記者が、
「真田幸村が大館に辿り着き、大館で生涯を終え、一心院に眠っている」
という記事を出版しました。
記事には、
大館に在住している幸村の子孫だという人から聞いた内容が記載されています。
昭和35年には、大館の学校の教師を務め、郷土史家である達子勝三(たっこかつぞう)氏が一族の協力の元「真田幸村と一心院」という本を出版しました。
ここで私からフォローということでもないんですが、
幸村生存説を研究し、唱えた人たちは、歴史を変えたいということではないのだと思います。
真田一族の過去に起こった実際の記録から、真田家と幸村とが、どのように関わっているのか知りたいために研究したのだと思います。

真田の歴史書によると、幸村は最終的に大館の街中に信濃屋酒造店を営みます。
市兵衛と名乗ったそうです。
市兵衛こと幸村は、75年の生涯を全うし、その人生を静かに閉じました。
丁重に葬られた彼は一心院に眠っていて、その戒名も真田の歴史書に記述されています。
さらには、一心院に残っている戒名記録帳にも真田の歴史書と同じ戒名が記述されています。
※見誤りと思われる文字はあるようです
幸村生存説に関係した武将たち
真田幸村が大坂夏の陣の戦いから脱出し、生き延びることができたとしたら、様々な武将の力添えが必要だったと思います。
それについては、こちらにまとめましたのでごらんください。
幸村の供養塔・供養墓
最後がナゾなだけに、幸村の供養塔・供養墓は全国各地に存在しますが、遺骨を納めたという確たるお墓は未だ確認されておりません。
大館市一心院 幸村の墓
真田幸村が眠っているとされているお墓です。

一心院と真田幸村の関係については、こちらにまとめていますのでご覧ください。
大阪市安居神社 幸村戦死跡の碑

安居神社
京都市龍安寺 幸村夫婦の供養墓
幸村の娘が嫁いだ先の石川備前守によって建てられたお墓です。

京都市龍安寺
長野市長国寺 真田家の菩提寺・幸村と息子大助の供養塔
幸村の兄昌之(まさゆき)が建立した寺院です。
松代藩、真田家の菩提寺にもなっています。

長野市長国寺
福井市考顕寺
福井市考顕寺(こうけんじ)には大阪夏の陣で幸村を討ち取ったとされる西尾宗次が、幸村を供養した鎧袖塚碑があります。
宮城県白石市功徳山当信寺・月心院
幸村の三女お梅によって建てられた供養碑とお墓があります。
由利本荘市亀田妙慶寺
幸村の四女お田(おでん)姫が建てた真田家の供養塔があります。
まとめ
今回は真田幸村の生き延び伝説について考察しました。
調べていくと東北地方には真田家と結びつきが強い人が多くいることが分かりました。

後に詠まれた川柳
村人を 酔わせて眞田 すっと抜け
そんなフットワークの軽い幸村がいて、魅力的と感じることから幸村がどこかに逃げ延びているのではないかと思わずにいられません。
語り継がぬとも形として残されているものは数多くあり、私たちの知らない歴史もまだまだあります。
幸村の行き先もその一つなのかもしれません。





