大館市の一心院の境内には「信濃屋長左衛門事・眞田左衛門佐幸村之墓」と刻まれた墓石があります。
信濃屋長左衛門事・眞田左衛門佐幸村之墓
しなのや ちょうざえもん こと ・さなだ さえもんのすけ ゆきむらのはか

史実では
1600年、天下の分け目の関ヶ原の戦いから15年後の大坂夏の陣でついに豊臣氏は滅亡。
豊臣家に付き、徳川家と戦った真田幸村もまた安居神社で敵陣により討たれる・・・
となっています。
ただ、真田幸村の供養墓が日本各地に存在しているのも事実であり、幸村や豊臣家の生存説を肯定する人たちも少なくありません。
歴史学者たちは幸村討ち死に説を事実と認め、それを史実としていますが、もし、実は生き延びていたら・・・?
だとしたらなぜ生き延びることができたのか・・・?
ご遺族によって密かに守られてきたというそのお墓は、本当に真田幸村が眠っているお墓なのでしょうか?
現在の歴史書とは違う、もう一つの歴史について考察します!
真田幸村こと真田信繁とは

真田幸村は2016年にNHK大河ドラマ「真田丸」で話題になった人物ですね。
それ以前から幸村は人気の高い戦国武将の一人で、多くの名言、伝説を残しています。
彼はどのような生涯を送ったのでしょうか?
真田幸村の本来の名前は真田信繁(のぶしげ)です。
最後まで信繁と名乗った説、途中で幸村に改名した説、後世につけられた説があります。
現在は幸村と言った方がメジャーな感じがありますので、本記事でも幸村で話を進めていきたいと思います。
真田幸村(信繁)の生涯
真田幸村は1567年、真田昌幸(まさゆき)の次男として生まれました。
19歳上杉氏の人質となり、21歳豊臣氏の人質となるという、青年期は人質生活を送っていました。
ただ人質だからといって不自由な思いをすることはなかったそうです。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起きると幸村は父昌幸とともに西軍に味方、信濃(長野県)の上田城に籠城して徳川軍を苦しめました。
しかし西軍が負けると幸村親子もまた責任を取らせられ、和歌山県の九度山(くどやま)で謹慎生活を送ることとなりました。
その後、豊臣氏と徳川氏の大坂冬の陣に参戦するため九度山(くどやま)を脱出、大阪城の南方に「真田丸」という出丸(でまる)を築いて奮闘します。
これにより徳川軍は大打撃を受けました。
さらに大坂夏の陣では家康の本陣に攻め込み、馬印(うまじるし)という大事な旗は倒伏、家康は退却、家康に切腹させる覚悟まで追い込みます。
しかしあと一歩のところで幸村の余力も付き、安居神社の境内で休んでいたところ、徳川軍に見つかり討ち死にしたと云われています。
真田家の教え
幸村の父・真田昌幸は、武田信玄の家臣として領土拡大のために尽力しましたが、武田氏の滅亡後は主君を何度も変えて乱世を渡ります。
最後は豊臣秀吉に仕え、秀吉から「策略に長けたくせ者」と呼ばれました。
敵の感情を刺激し、自分の得意な領域へ誘い込み、何万という大軍を大敗させる戦法を持っていたんですね。
また関ヶ原の戦いでは、幸村と父昌幸は豊臣方へ付きますが、幸村の兄信之は徳川方へ付きます。
この決断は親子3人で相当揉めた事柄だったそうですが、どちらが勝利しても真田氏を存続させることができると教えに従ったものであり、真田家が戦国の世を生き残るため身に付けていた才能だったといえます。
大阪夏の陣~幸村の行方~
戦乱の世の中を生き抜いた真田幸村をめぐっては、定説といくつかの異説があり、各地へ逃亡した伝説が語り継がれています。
以下、伝説の範疇で読んでいただけたら幸いです。
定説 ~幸村と豊臣氏の最期~
1615年の大阪夏の陣で家康本陣へと突撃した真田勢はあと一歩まで家康に迫りました。
しかし、徳川軍も決死の攻撃をします。
多勢に無勢とはこのこと、大勢の相手に対して少人数で立ち向かっても勝ち目はなく、敗色濃厚となり幸村は安居神社に撤退しました。
安居神社の境内で休んでいた幸村ですが、幸村の首狩り隊として出ていた越前藩西尾宗次に見つかります。
1615年5月7日、49歳の生涯でした。
当然のこと、幸村の首検証も行われました。
豊臣秀頼(ひでより)は大阪城内にある山里曲輪(やまざとくるわ)の蔵の中で母淀殿と共に23歳の生涯を閉じました。
幸村の息子である大助も秀頼と共に自害しました。
秀頼には側室との間に生まれた子供が一男一女いましたが、男の子国松は逃亡し隠れていたところを発見され、処刑されます。このとき国松はわずか8歳でした。
女の子は仏門に入り37歳の生涯を終えました。
こうして豊臣の血統は完全に絶えてしまいました。
生存説① 九州編
大坂夏の陣で家康軍の攻撃から突破した幸村は、息子大助と秀頼(ひでより)を連れて逃亡します。
逃亡した先は島津氏が治めている薩摩藩です。
逃亡手段は島津家の軍船で海を渡った説、真田の抜け穴から逃亡したなど、諸説あります。
島津氏は実力をもつ大名であり、関ヶ原の戦いでは家康に対抗し西軍に付きました。
にもかかわらず家康に大名であることを許されたのは島津氏が有力者であったこと、薩摩が江戸から遠かったからだと云われています。
薩摩藩は幸村も秀頼も逃亡先として適した場所だったと言えます。

幸村は薩摩では芦塚左衛門と名乗り、鹿児島県南九州市・田原家私有林内にある墓石が幸村の墓と伝承されてます。
また、鹿児島市郊外の谷山には、秀頼のお墓と云われる石塔がたたずんでいます。
花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田がつれて、退きものいたよ加護島(鹿児島)へ
大阪城が落城した後、京都ではこのようなわらべ歌が唄われたそうです。
大人が内緒話のように話していることを子どもたちが聞いていたようですね。
生存説② 東北行脚編
逃亡を手助けしたとされる島津義弘氏は1619年に死去。
幸村と大助はそのタイミングで薩摩藩から東北へ向かいます。

幸村親子は六部(りくぶ)という修験者となり、岩手から恐山へ、津軽藩(青森県弘前市)の城下町を経由して秋田の県境である矢立峠を越えます。
大館に入ると自分の住む場所を鳳凰山(ほうおうざん)より西にある岩神山(いわがみやま)の麓と決め、畑を耕し真田紐を編んで生活を始めました。
その後は比内町の小館花に移住、さらに大館の街中へ移住し屋号「信濃屋」酒造店を営みました。
幸村は1641年12月15日、75歳の生涯を終え、大館の一心院に葬られました。
なぜ生存説が唱えられるのか?~考察~
以上からの史実と逃亡伝説より、なぜ幸村の生存説が唱えられているのか。
大阪夏の陣で討ち死にしたという根拠について考察をしていきたいと思います。
幸村の最期の確証がない
幸村にとって最期の戦いとなった大坂夏の陣、この時徳川氏によって大阪城を囲んでいたお堀や真田丸は取り壊され、丸裸の状態になっていました。
幸村は他のものには目もくれず、「家康の首を取るのみ」と本陣に突撃します。
戦う姿は戦場にツツジの花が咲いたかの如く、赤備えが映えていたと徳川軍に云われています。
このことから日本一の兵(ひのもといちのつわもの)と鹿児島藩の島津氏に讃えられたのが有名となっています。
幸村軍は「われこそは幸村なり!」と左から右から、正面から家康本陣に突入してきたため、多くの旗本たちが驚いて逃げました。
幸村を討ったと思えば、別から幸村と名乗り出てくる状態です。
結局、安居神社で捕らえた幸村も含め、首検証で並べられた武将たちの損傷が激しくて誰が本当の幸村かどうか見定められなかったとのこと。
ここで「もし私だったら…」の私情を入れますと、これだけ並べて幸村の首がありませんでしたって…言えません(汗)
「幸村だけでなく豊臣一族も全滅しました、大阪城で秀頼の焼〇体が確認されました。
徳川家の完全勝利でございます。」
って徳川家の勝利宣言をするかもしれません(汗)
☆☆☆☆☆☆
さてさて、幸村の供養塔・供養墓は全国各地に存在しますが、遺骨を納めたというお墓は未だ確認されておりません。
九度山や大阪城などに真田の抜け穴と言われるものが存在したり、後述しますが幸村の逃亡に関わっているような武将たちがいることから、もしかしたらと思わずにはいられない何かあります。
真田氏の史実・系図が現存している
ある方が持っている一族の家系図と歴史書に、真田幸村に関係する事柄が記述されています。
家系図には幸村の始祖となる海野(うんの)氏のことから記述されています。
真田の歴史書をもとにして、大館市出身の長井金風(ながいきんぷう)氏は幸村が大館にて生存していた説を唱えました。
長井金風氏は大正時代に活躍した東洋史学者です。
これがきっかけとなり、大館市を中心に真田幸村の研究が進められてきました。
大正8年、弘前新聞の大館支局で真田幸村が大館に来て一心院に眠っているという記事を出版しました。
記事は大館にいる幸村の子孫だという人から聞いた内容が書かれています。
その後、大館の学校の教師を務め、郷土史家である達子勝三(たっこかつぞう)氏が一族の協力の元「真田幸村と一心院」という本を出版しました。
ただし研究してきた方々は歴史を変えようということではなく、一族の過去に起こった実際の記録から幸村とどのような関わりがあるのか知りたいために調査しています。

真田の歴史書によると、幸村は最終的に大館の街中に信濃屋酒造店を営みます。
名前は市兵衛。
市兵衛は75歳の生涯を終え、大館の一心院に葬られました。
戒名も一心院の過去帳に記録されています。
そして真田の歴史書に記述されている戒名と一致することが明らかになっています。
※見誤りと思われる文字はあり
幸村生き延び説に関係した武将たち
佐竹義宣(さたけよしのぶ)
まずはこちらの方。

佐竹義宣
義宣(よしのぶ)は初代秋田藩藩主となった人、家康に常陸国(ひたちのくに)茨城から秋田へ行きなさいと言われた大名です。
幸村の四女お田(おでん)は、佐竹義宣の弟岩城宣隆(いわきのぶたか)の側室となりました。
お田は岩城宣隆との間に男子を授かり、男子は亀田藩(秋田県由利本荘市)藩主となりました。
幸村の三男幸信は、亀田藩の家臣となりました。
真田家と佐竹家がいつからどのようにして繋がりを持っていたのかは定かではありませんが、双方とも石田三成と親交がありました。
義宣(よしのぶ)が関ヶ原の戦いで石田三成の西軍に付かないまでも、東軍に加勢しなかったのは義宣が三成と深い親交があったからでした。
三成の暗殺計画があった際、三成を女性に変装させて逃亡させ暗殺を阻止したのは義宣(よしのぶ)だと云われています。
真田家としては、三成と幸村は遠縁であったこと、幸村が大阪城に人質として入った際、三成にお世話になったことから豊臣秀吉の下で腹心の親交が築かれていました。
佐竹氏と真田氏の共通点は石田三成。
佐竹義宣は石田三成を思い徳川軍に属さなかったことから同志であるといえます。
石田三成を介して真田氏と佐竹氏に面識があり2人とも三成に対して恩恵を持っているのならば、幸村にとって佐竹氏は心強い人物であったと思われます。
佐竹氏は真田氏に好意的であり、徳川の捜索から守った可能性はあると考えられます。
また、幸村の四女お田(おでん)は能代で男子を出産しています。
能代は大館に近いので、幸村はおでん姫と男子に会えたかもしれませんね。
石田三成

石田三成
豊臣秀吉に仕え豊臣政権に大変貢献した人で人気のある武将の一人です。
秀吉が亡くなった後に関ヶ原の戦いで徳川軍に敗れました。
三成は中央政権にいる武将だけでなく、地方大名の名誉が保てるよう働いたとても面倒見の良い人物でした。
徳川時代に石田三成の評判は下がっていますが、人脈が無かったとか嫌われたとか優しくないとか云われたこともありますが、そんな人ではないことが数少ない文献や手紙から分かっています。
幸村が人質として大阪城に入った際、三成と幸村は遠縁ということもあり親しい仲となりました。
また三成と幸村の兄信之とも手紙のやりとりが行われていることから真田家と石田家が友好関係であることが分かります。
関ヶ原の戦い後、三成の遺族も処罰されると思いきや6人の遺児全員が生き残っています。
その中の次男重成と三女辰姫は、関ヶ原合戦後、津軽藩(弘前市)の津軽為信のもとに迎えられました。
津軽為信は三成に助けてもらったことがあり、恩義に報いるべく2人を引き取ったのでした。
引き取られた重成と辰姫は大切に育てられました。
危険を顧みず三成の遺児を引き取る津軽氏には感銘を受けます。
津軽氏もまた幸村にとって心強い人物であったと思われます。
明石全登
明石全登(てるずみ)は大阪の陣のとき「大阪城の七星」の一人と言われた武将です。
大阪夏の陣で落城寸前に難を逃れ、徳川軍の追跡も逃れ、仙台藩の伊達政宗のところで一旦落ち着きました。
しかし仙台藩においてもかくまいきれずさらに北へ逃亡、津軽藩の弘前に移り住みました。
津軽に身を置いて3年後、明石全登は毒殺されてしまうわけなんですが、長男、次男、三男が矢立峠を越えて大館の扇田に居住しました。

明石全登の子孫で有名な人は、外交官、国際公務員、国際連合事務次官などを歴任した明石康(あかしやすし)さんがいます。
でですね、徳川軍だった伊達政宗が、なぜ豊臣軍だった明石全登をかくまったのか。
不思議ですよね。
ちなみに大阪夏の陣で伊達政宗は、徳川軍で味方のはずの水野軍を鉄砲で撃って全滅させたと語られています。
理由は、伊達と水野の不仲とか、伊達が真田と戦いたくなかったのに水野に行けと命令されたからとか諸説ありますが、両軍目撃者多数おり、味方撃ち話はかなり確かな話であるようです。
この味方撃ちのおかげで明石全登は徳川軍の攻撃を突破できたとか。
敵であろうと助けるとなれば助けるし、味方でも納得いかなければ味方撃ちする。
というのが伊達政宗の信念なのかもしれません。
伊達政宗
さて、その伊達政宗公です。

政宗は明石氏の逃亡を擁護しただけでなく、真田幸村とも深く関わっていて、真田一族存続の救世主となる人です。
大阪夏の陣の直前、幸村は二女お梅、三女お菖蒲、二男大八を政宗の側近である片倉小十郎景綱と息子の重綱に託しています。
お梅は重綱の継室となり、大八は後に片倉守信と名乗ります。
徳川家からの疑いの目をかわし、伊達家と片倉家に守られてきた幸村の子どもたちでした。
お梅は体が弱かった正室からとても可愛がられました。
正室が亡くなる際、お梅は一人娘と夫重綱の後添えをお願いされてこの世を去ります。
お梅はその意思を守り、正室の娘を育て片倉家を支えました。
大八は片倉守信と名乗りますがその子孫からは姓を真田に戻し、現在まで仙台真田の家系は続いています。
以上の武将たちと幸村の逃亡説という切り口で見た場合、東北地方には逃亡ルートが各所にあったのではないかと考えられます。

幸村の供養塔・供養墓
幸村の供養塔・供養墓は全国各地に存在しますが遺骨を納めたというお墓は未だ確認されていません。
大館市一心院 幸村の墓
幸村が眠っているとされているお墓です。

大阪市安居神社 幸村戦死跡の碑

京都市龍安寺 幸村夫婦の供養墓
幸村の娘が嫁いだ先の石川備前守によって建てられたお墓です。

長野市長国寺 真田家の菩提寺・幸村と息子大助の供養塔
幸村の兄昌之(まさゆき)が建立した寺院です。
松代藩、真田家の菩提寺にもなっています。

福井市考顕寺
福井市考顕寺(こうけんじ)には大阪夏の陣で幸村を討ち取ったとされる西尾宗次が、幸村を供養した鎧袖塚碑があります。
宮城県白石市功徳山当信寺・月心院
幸村の三女お梅によって建てられた供養碑とお墓があります。
由利本荘市亀田妙慶寺
幸村の四女お田(おでん)姫が建てた真田家の供養塔があります。
まとめ
いかがだったでしょうか?
今回は眞田幸村についてまとめました。
調べていくと東北地方には真田家と結びつきが強い人が多くいることが分かりました。
幸村は負ける戦いと知りながら最後まで勇猛果敢に戦い、潔い最期を遂げた英雄伝説が語り継がれています。
しかし、後に詠まれた川柳
村人を 酔わせて眞田 すっと抜け
そんなフットワークの軽い幸村がいて、魅力的と感じることから幸村がどこかに逃げ延びているのではないかと思わずにいられません。
語り継がぬとも形として残されているものは数多くあり、私たちの知らない歴史もまだまだあります。
幸村の行き先もその一つなのかもしれません。