【渋谷ハチ公】ハチ公の飼い主上野博士|ハチ公を愛し愛された人たちまとめ第1弾

人物・文化
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渋谷駅に隣接する「忠犬ハチ公像」の前は多くの人でにぎわっています。

11年間の生涯の多くを渋谷駅前で過ごしたハチ公は、晩年にかけて多くの人々に愛される犬となりました。

優しい心の持ち主だったハチ公はどのような人を愛し、どのような人に愛されたのでしょうか。

今回は、第1弾として、ハチの飼い主である「上野英三郎博士」についてまとめました。

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ハチ公の飼い主はどんな人?

上野英三郎教授(うえのえいざぶろう)

上野英三郎博士

上野英三郎教授は、忠犬ハチ公の飼い主として広く知られている人物です。

上野教授とハチ公の物語は、今でも世界中の人たちに感動を与えています。

しかし、このエピソードだけでなく、実は日本の農業分野においても重要な役割を果たした偉大な人物でした。

上野教授は、農業土木の研究に取り組み、日本の農業がどのように発展すべきかを考え、指導的な役割を果たした人物として知られています。

特に、次の2つについては高く評価されています。

・現在の東京大学の農業工学科のルーツを作った人

・日本の農業土木学の創始者

上野英三郎教授の簡単な年表

では、上野教授がどのような生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきます。

上野英三郎博士の年表

1874年(明治4年) 三重県津市で生まれる

1887年(明治20年) 東京農林学校に入学(15歳)

1890年(明治23年) 帝国大学(東大)農学科の予科に入学(18歳)

1895年(明治28年) 帝国大学(東大)農学科を卒業(23歳)

1895年(明治28年) 農学士の称号を受け大学院に進学(23歳)

1902年(明治35年) 帝国大学(東大)農学科の助教授に就任(30歳)

1905年(明治38年) 農商省(国の官庁)に委託され、農業土木技術員の育成に努める(33歳)

1911年(明治44年) 農学科の教授に就任、東京大学農業工学科を設立(39歳)

1924年(大正13年) 秋田犬を購入、ハチと出会う(52歳)

1925年(大正14年) 大学の職務中に脳出血により急逝(53歳)

ハチ公との出会いは、上野博士が52歳のとき。

上野博士の「秋田犬を飼いたい」という強い要望により、かつての教え子のつながりで大館市からハチを夜行列車に乗せ、家族として招き入れました。

しかし、上野博士は53歳の時、突然大学で在勤中に亡くなってしまいます。

ハチ公がやっと2才になろうとしている頃のこと、わずか17か月の付き合いとなってしまいました。

どれくらいハチ公を可愛がったか

上野博士は愛犬家でハチ公だけでなく洋犬、和犬と何匹も犬を飼っていました。

なかでも、ハチ公のことをとりわけ可愛がったと言われています。

ハチは1才になるまでは病弱で特に胃腸が弱く、元気に走り回ることができませんでした。

上野博士はハチを飼う以前から何匹かの秋田犬を病気によって失っていたため、ハチ公を死なせてはいけないと一生懸命看病しました。

ハチのお腹を温めてあげたり、冬の間は家の中に入れて上野博士のベッドで寝かせました。

博士が仕事から帰宅すると、ハチを抱き上げ、居間の火鉢のそばに一緒に座るのが習慣となっていたそうです。

上野邸でのお花見では、前の日にハチと一緒にお風呂に入り、その晩は同じ寝室に寝かせ、花見の最中はずっとハチを膝の上に乗せていました。

大きな音が嫌いなハチが怖がっていると抱っこして「怖くないよ」となだめたり。

まるで自分の子供のようですね。

このように上野博士に可愛がられたハチ、先生の愛情を受けられて、とても幸せな毎日だったと思います。

渋谷の忠犬ハチ公の生涯についてはこちらをご覧ください。

上野教授の死因

多忙な日々で中耳炎を患う

大正11年1月、上野教授は、化膿性中耳炎を患い、長期間にわたり苦しい闘病生活を送ることとなりました。

病気はその健康を著しく損ね、8ヵ月にも及ぶ重体状態に陥るほど深刻なものだったようです。

奇跡的にも命を取り留め、その後、徐々に回復へと向かっていったものの、完全に健康を取り戻したわけではありませんでした。

耳鳴りやめまいといった後遺症、上野教授を悩ませる日々が続きます。

それでも、持ち前の強い意志と気力で職務に復帰しました。

家族や生徒たちは彼の健康を心配し、休養を取るよう何度も説得したのですが、上野教授はそれらの声に耳を傾けることなく、こう語ったと言います。

「自分の将来を考える余裕はないよ。他にも考えなければいけない問題が山ほどあるんだ。」

この言葉には、彼が自身の健康よりも社会や学問への貢献を優先させる覚悟が込められていると感じます。

彼が抱えていた使命感を感じますね。

無為にして拾年を生きんよりはむしろ活動の三年を欲する

という上野教授の言葉が、岸一敏「忠犬ハチ公物語」(国立国会図書館所蔵)に残っています。

大学の職務中に突然たおれる

大正14年5月21日、その日は、曇天が広がる重い空の下で始まりました。

この日は、東京帝国大学農学部教授であった上野英三郎氏にとって、最後の日となった日でした。

その朝、上野教授を大学の校門まで見送ったのは、ハチ公だけでした。

毎朝教授を送り出すのが日課だったハチ公。

夕方、教授が帰宅する時間になると再び校門へ迎えに行きます。

しかし、この日ハチは暗くなるまで待ちますが、教授は帰ってきませんでした。

上野教授の最期は、あまりにも突然でした。

その日は教授会が予定されており、教授は羽織袴という正装で大学へ向かいました。

教授会を終えた後、農学部内の他の教授の部屋を訪れ、軽い会話を交わしたそうです。

しかし、その直後、椅子に腰かけたまま意識を失い、そのまま帰らぬ人となりました。

死因は「脳出血」と診断されました。

ハチ公の愛する主は戻らず、その事実をまだ知らないハチは悲しげに佇み続けます。

この出来事が、後に「忠犬ハチ公」として日本中の人々に知られる物語の始まりとなりました。

上野博士が残したもの

研究内容が未来に行き過ぎていて周りがついてこれない上野ビジョン

農業という分野は、私たちの生活に欠かせない食料を確保するための基盤です。

農業の生産性を向上させるために、貢献した上野英三郎教授は日本の農業土木学の創始者といわれています。

昔の田畑の姿

現在、私たちが目にする田畑は、きれいに区画整備され、効率的な農業が行われています。

でも、かつての田畑は、自然地形に沿って作られた不規則な形状が一般的でした。

そのため、一つ一つの田んぼの形や大きさが異なり、水の管理や耕作が非常に手間のかかるものでした。

また、土地の所有者ごとに分割されていたため、隣接する田畑との境界線も複雑、農作業の効率が悪かったと言われています。

区画整理と水路の整備

上野教授は、農地を効率的に利用できるように区画整理を行い、水害による被害を最小限に抑える仕組みを構築しました。

また、農業用水の供給と排水を効率的に行うための水路整備にも力を入れました。

適切に水を管理することは、農作物の成長に必要なことであるので、上野博士の取り組みは、農業生産量を向上させる結果をもたらしました。

自然災害への対策

自然災害による被害を軽減するために、堤防や排水施設の設計にも貢献しました。

このインフラ整備によって、農地だけでなく周辺地域の安全性も高まったと考えられます。

上野ビジョン

上野教授が提唱した理論は、当時の人々にとってはあまりにも先進的であり、すぐに受け入れられることはありませんでした。

それでも、彼の教えを受けた生徒たちは技術者になり、後の復興と農業改革において、全国各地で活躍しました。

彼の先見性は、現代の農業基盤を築く上で欠かせないものだったんですね!

教育者として

上野教授の教え子たちは彼を深く尊敬し、彼が亡くなった後もその遺族である八重子夫人を支えるために資金を集めるなど、恩師への感謝の気持ちを行動で示しました。

教授が中耳炎により体調を崩した際にも、教え子たちで資金をあつめ、葉山に別荘を用意するなど大切に思う気持ちがあふれていたように見えます。

もっとも教授は「頼んでもないのに!要らない!」と怒ったそうですが(負担をかけたくないという意味で)

さらに、教え子たちは上野教授の墓とハチ公の碑を建てることで、彼の功績を後世に伝える努力を続けました。

このことからも、上野博士がいかに人望の厚い人物であったかが伺えます。

まとめ

上野英三郎博士についてまとめ

・明治4年、三重県津市で生まれる

・犬が好きで、何匹も犬を飼っていた

・現東京大学農学科を卒業し、日本の農業土木の発展に貢献した

・上野博士の教え子たちに慕われていた

・ハチとの出会いは博士が52歳のとき

・ハチとの別れは博士が53歳のとき