【大館】一心院と真田幸村との関係を調べました

人物
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秋田県大館市の一心院には真田幸村と息子大助のものと伝わる供養墓があります。

史実では

1600年、天下の分け目の関ヶ原の戦いから15年後の大坂夏の陣でついに豊臣氏は滅亡。

豊臣家に付き、徳川家と戦った真田幸村もまた安居神社で敵陣により討たれる・・・

となっています。

しかし真田幸村の供養墓が日本各地に存在しているのも事実であり、大館一心院もその一つであります。

その墓石はある一族によって代々守られてきました。

もし幸村が大館を永住の地として選び一心院に眠っているとしたら・・・?

とても興味深い伝説だったので、調べたことをまとめました。

伝説の範囲で読んでいただけたら幸いです。

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真田幸村こと真田信繁とは

真田幸村は2016年にNHK大河ドラマ「真田丸」で話題になった人物ですね。

それ以前から幸村は人気の高い戦国武将の一人で、多くの名言、伝説を残しています。

真田幸村の本来の名前は真田信繁(のぶしげ)です。

現在は幸村と言った方がメジャーな感じがありますので、本記事でも幸村で話を進めていきたいと思います。

また幸村の生涯や大坂の陣、逃亡説についてはこちらの記事をご覧ください。

大館市・紀行山「一心院」とは

大館市の一心院は、大館市谷地町に鎮座している浄土宗の寺院です。

ご本尊は阿弥陀如来様となります。

一心院の敷地内には、放光王地蔵さま、お薬師さま、六地蔵、延命地蔵尊、お稲荷様などのお堂がお祀りされています。

一心院の歴史は古く、1555年(室町時代の後期)、むつ国小場村(現在の茨城県大宮市)に建立されたのが始まりです。

小場村の城主小場義実を供養するために建立されました。

時は流れ、1611年、佐竹義宣(よしのぶ)が常陸国から秋田への移動することになったことから、大館城には小場義成(おばよしなり)が大館城代となり、大館を統治することになりました。

そして一心院も同じタイミングで現在の地に移ることになります。

1617年にはお堂が建立されました。

城代とは城主(佐竹氏)に代わって、そこの領土の統治を任された家臣のことです。

真田家の供養墓

真田家の墓石は四つあります。

幸村のお墓とされているのが左から2番目、右隣の2つは息子大助と幸村の妻のお墓と伝えられています。

一番左のお墓がもっとも新しい墓石で、弘化三丙午(ひのえうま)と刻まれているので、1846年(江戸時代後期)のものとなります。

左が幸村の墓石です。

風化により、刻まれていた文字は見えません。

幸村が亡くなった年は寛永18年(1642年)ですから今から380年以上前になります。

私少しだけですが石碑に興味があって、神社や道路脇にある猿田彦大神や庚申信仰や○○大神などの石碑を見るんです。

すると明治時代に建てられた石は全然あたらしいです、くっきり文字が見えます。

江戸後期、1830年頃の天保までは読み取れますが、天保より前の年号は見たことが無いという記憶です。

あくまで想像の域での話ですが、幸村とされる墓石は、その風化具合からかなり古いものと考えられ、江戸中期より以前のものではないかと思われます。

そして一番右の黒めの墓石ですが、幸村の墓石よりも風化が進んでいないようですし、石の質も違うことから、1691年に亡くなった大助の墓石でなはいかと思われます。

幸村の死から約50年後のものではないかと。

とすると、真ん中が幸村の妻の墓石ということでしょうか。

幸村の妻は、幸村が亡くなった同年同月に亡くなっているので、敢えて墓石を別に建てるのかなとも思いましたが、当時は主人のお墓と一緒にしない風習があったのかもしれません。

石の材質としては幸村と同じ感じもします。

背面から見た墓石です。

一族の家紋になります。

家紋 ~六文銭~

真田家の家紋といえば、六文銭、結び雁金紋(かりがねもん)、州浜紋(すはまもん)があります。

六文銭

仏教では六つの世界(天界、人間界、修羅、畜生、餓鬼、地獄)があるとされています。

仏教において人間はこの世界のなかで生死を繰り返していると考えられています。

つまり輪廻転生ですね。

どの世界に生まれ変わっても救いの手を差し伸べてくれるという「六地蔵」に納めるお賽銭のことを六文銭(六道銭)といいます。

真田家の家紋としましては、死後に渡る三途の川の渡し賃を意味しています。

死を覚悟して戦いに臨むという、真田氏の強い決意が込められています。

結び雁金紋

結び雁金紋は渡り鳥の雁(がん)をイメージしたもので、幸せを運ぶ、良い知らせという意味があります。

よって勝利を呼び込む幸運の鳥えあることから真田家の他にも雁金紋は多くの武将が使っています。

州浜紋

主に幸村の父昌幸が使用した家紋です。

州浜(すはま)とは河口などにできる地形のことで、末広がりな形から縁起の良い家紋とされています。

日本庭園にも用いられていますね。

真田家墓地に記されている家紋です。

雁金が5羽いることと、形を変えた六文銭が花形の中に配置されていますね。

外側は梅紋のシルエットに見えます。

こちらは一族に代々伝わる家紋ですので、真田家と関係が深いのではと考えられます。

素性を隠すためにこのような家紋にして繋いできたのではないでしょうか。

「一心」という名称・地名

真田氏のことを調べていると、「一心」という名称・地名が幸村と縁があることが分かりました。

一心谷 ~蓮華定院(れんげじょういん)~

真田昌幸、幸村親子が関ケ原の戦いで西軍に付いたことで、責任を取らせられ謹慎生活を送った最初の場所です。

蓮華定院(れんげじょういん)は和歌山県高野町一心谷にあります。

ご本尊は阿弥陀如来さま。

一心寺 ~大坂市天王寺区~

一心寺は真田幸村が最後を迎えたとされる安居神社の前にあります。

一心寺のすぐ南側には茶臼山(ちゃうすやま)、大坂冬の陣で真田丸を築いた場所ですね。

ちなみに一心寺にも真田の抜け穴と呼ばれる井戸があります。

大阪城と一心寺の中間ほどの所、三光神社の真田の抜け穴は有名ですね。

他にも九度山、上田城にも真田のものだとされる抜け穴があります。

真田十勇士が忍者だったと言われたのも納得できます。

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一心とは多くの人々が心を一つにする事を言います。

京都市にある一心院は浄土宗捨世派の本山で、ご本尊は阿弥陀如来となります。

一心専念という言葉は浄土宗の開祖法然上人が大切にしたものでした。

一心院、一心寺は東京、石川、埼玉、名古屋など各地にある寺院ですので、真田家もまた一心寺とご縁があったのでしょう。

まとめ

今回は一心院と真田幸村との関係を調べました。

様々な伝説を残していった武将だけに、もし生き延びていたら…という空想をせずにはいられません。

今後も色々な切り口で調査していきたいと思います!