【大館】奥州藤原氏の最期の当主”泰衡”が大館に来たので考察しました。散歩気分でどうぞ♪

歴史
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今回は、だいぶ個人的主観的が入っている記事になります。

前回の記事は、奥州藤原氏の4代目当主である藤原泰衡(やすひら)の生涯と、大館に逃亡してきた後、どのような最期を迎えたのかについてまとめました。

また、泰衡をお祀りしている「錦神社」と、泰衡のご夫人をお祀りしている「西木戸神社」についてもまとめています。

前回の記事については、こちらをごらんください。

前回の記事を書くに当たって、新しく分かったことがたくさんありました。

なので、今回は、錦神社と西木戸神社、それ以外の神社と、それにまつわる言い伝えから、勝手に泰衡生存説をたててみました。

なんなら全員生存説も考察してみようかなと考えている次第ですww

私が考察したことであって、史実に記載されていることではありませんので、お散歩気分で読んでいただけたら幸いです。

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藤原泰衡(やすひら)と奥州藤原氏

大館市の「錦神社」には藤原泰衡(やすひら)が祀られています。

彼はどういう人物で、どのような生涯だったのでしょうか。

画像はイメージです

藤原泰衡(やすひら)は、奥州藤原氏と呼ばれる平安中期から約百年間続いた豪族で、奥州藤原氏の4代目の当主であり、最期の当主です。

奥州藤原氏は、岩手県の平泉を拠点として、陸奥国と出羽国・・・要するに、東北6県ほぼ全てですね、東北地方を支配していた豪族でした。

奥州藤原氏が残したもので有名なのが中尊寺金色堂、と分かるようにその繁栄っぷりは見事なものでした。

4代目藤原泰衡のときに、色々こじれて源頼朝が率いる軍が平泉に攻めてきたことで戦が始まります。

戦いの差は明白、敗戦を悟った泰衡は、平泉の栄華を極めた館に火をかけ逃亡します。

そして、ほど経て現れたところが大館地区にある肥内(ひない)ニエのサクでした。

肥内は現在の比内町の旧称となるので、以後、比内とします。

比内には河田氏という、昔から代々奥州藤原氏に従っていた家臣がいて、奥州藤原氏に代わって大館地区を支配していました。

泰衡(やすひら)は、源頼朝に、今まで自分が行ってきたことを弁解する手紙を比内から送っています。

‣今までのことは父の秀衡(ひでひら)が行ってきたものだ

‣奥州領土を差し上げ従いますので、部下にしてほしい

‣島流しでも構わない、この命お助けください

わずかな希望を胸に、一度は北に向かった道を南下し、河田次郎に庇護を受けることを決め、頼朝には許しを請う手紙を送ったということです。

しかし泰衡の願いは叶わず、彼は自分の家来である河田次郎に裏切られ35歳で生涯を終えました。

史実ではこのような流れで、奥州藤原氏は滅びました。

泰衡は本当に河田次郎に討たれたのか

錦神社の境内にある説明によれば、

1189年9月3日の夜、河田次郎は多くの家来を使って、泰衡の周りを取り囲み、頼朝の大軍が攻め込んだように見せかけた

泰衡が観念し、切腹するように仕向けさせる計画だった

この計画が成功し、泰衡が自害したので河田次郎は泰衡の首をとって頼朝に献上した

ここ、さらっと述べましたが泰衡の最期を記述するには資料が少なすぎたこともあり、あっけない感じで終わっています。

100年もの間、東北全土を支配していた奥州藤原氏の最期も終わるときは終わるのね、と哀愁こみあげるものがあります。

結局、河田次郎も頼朝の怒りを買い、処刑されてしまいました。

頼朝は主を簡単に裏切る人物が許せなかったのでしょう。

主の恩を忘れて命をうばい、のみならずその首を売って賞にあずかろうとは何たる奴だ。

お前ごときに頼らずとも、わし自ら処分できるわ!

さて、本題ですが、この最期の話を聞いた時、違和感があったんですよね。

すんなり受け入れられないというか、どうも腑に落ちないというか。

大豪族であった当主藤原泰衡が、へき地の小豪族河田次郎によってかんたんに討ち取られますかね?

ちょっとあっけなさ過ぎませんか?

泰衡は、なによりも生きることに執着していたように見えます。

 ‣生きるために義経を裏切った

 ‣生きるために余計に戦わず敗走、平泉を焼き払い逃亡

 ‣頼朝に許しを請うた

 ‣自らの鎧や兜を脱ぎ捨てている(後述します)

また泰衡の身辺については、家来たちによる細心の警戒が行われていたはずです。

泰衡と共に戦火をくぐりぬけ、奥州藤原氏として長い間泰衡を慕い続けてきた数騎の家来たち。

「泰衡様は、命に代えても御守りする」

という気迫で護衛しているのではないでしょうか?

戦火をくぐりぬけ、大館地方まで来たら逃亡は成功したも同然ではないでしょうか?

河田次郎の家来に囲まれて、悲観しいとも簡単に自害するとは考え難いものがあります。

河田次郎の家来たちについて考察すると、武器も馬数も少なく、家来は武士を名乗ろうとも日頃は農業や猟師で生計を立てていた村人であったわけです。

藤原氏の軍とは雲泥の差であったでしょう。

敗走軍とはいえ、藤原軍が来たらビビりますよねww

仮に河田次郎軍に取り囲まれたとしても、抵抗なく自害するでしょうか?

裏切るのか卑怯者!なんて蹴散らしちゃいそうですね。

もう1つ言えば、河田次郎は本当に存在していた豪族なのでしょうか?

大館地区にある歴史書には、泰衡を討った河田氏の記述はあるものの、そのこと以外の河田氏については記録が残っていないようです。

大館市教育委員会出版の”ふるさと大館名所手帳”によれば、

◇斬殺された河田次郎の一族のその後に関しては、まったく記録が残されていません

とのこと。

守るべきは奥州藤原氏の血族、そして泰衡の身。

このことを最重要任務とすると、泰衡たちの計画が見えてきます。

泰衡の計画と逃亡ルート

泰衡はニエのサクで自分が〇んだことにします。

私の墓所を作り、泰衡は消されたと伝えよ

と、村人に自ら錦の直垂(ひたたれ)を託します。

私の妻と子供たちもすべて自害したと伝えてくれ。これで終いだ

泰衡は、長くニエのサクにとどまることはなかったと考えます。

なぜならば、頼朝の追っ手がニエのサクに来ることを避けたかったからです。

頼朝の軍勢がニエのサクに来たらこの地は滅茶苦茶にされるだろうと思ったのかもしれません。

また、ニエのサクに身を置く家来が出たのかもしれません。

泰衡は、頼朝が動く前に早めに手を打ちます。

その作戦は…というと

8月22▶平泉館に火を着け逃亡

9月2日▶比内に到着

9月3日▶ニエのサクで自害

9月6日▶河田の次郎によって陣ヶ岡(じんがおか)に泰衡の首が届けられる

陣ヶ岡とは平泉よりも少し上の所にありますが、それでも大館からたった3日間で陣ケ岡に着くというのは考え難いかなと思います。

申し訳ないが、誰かしらの首を奉げることで、頼朝に勝利宣言させて戦を終わらせたかったのかもしれません。

吾妻鏡によると、頼朝の軍勢が平泉に到着したとき、泰衡の放った火によってすでに家屋に煙が立ち上り、廃墟となっていた。

もう誰一人いなかった。

と記述されています。

平泉の人々を守るため避難させたのならば、泰衡はそんな人なのでしょう。

米代川

そして、比内ニエのサクにある米代川を下り、脱出したのではないでしょうか。

米代川はいずれ日本海へ出ます。

行き先は北上し蝦夷地か大陸か。。。

とにかく頼朝の追っ手が届かないところまで逃亡します。

米代川を下る途中、能代市の薄井では鎧(よろい)を、切石では兜(かぶと)を手放しています。

自分の身分を捨て生き続けるという意思の表れでしょうね。

逃亡ルート

さぁ米代川に乗った泰衡一行、日本海を目指します。

日本海までもう少しのところ、薄井村(現・能代市二ツ井町)で鎧を脱ぎます。

それから薄井村から少し下った場所である、切石地区(現・能代市二ツ井町切石)では兜を脱ぎ捨てます。

言い伝えによると、鎧も兜も大きくてキラキラと光り見事なものだったそうです。

地元の人たちはそれをご神体として神社に祀りました。

兜の鑑定をしたところ、出羽国トップレベルとのお墨付きが出て大切にされています。

史実では

「逃亡に疲れ果てた泰衡は、切石で兜を脱ぎ捨て、薄井で鎧を脱ぎ捨てた。比内に辿り着いたとき、家臣の河田次郎の裏切りにあって討たれてしまう」

となっていますが、

逃亡ルートは逆ではないか?

と思うのです。

平泉から奥州街道を北上し、盛岡で鹿角街道を通り北上していくと、比内のニエのサクに辿り着きます。

史実のように、切石→薄井→比内だとすると一級河川である米代川に乗って逆流することは大変だろうし、川は使わず、羽州街道を通って岩手方面に戻るのも難儀かなと思います。

第一、平泉からどうやって大館を飛ばして能代へ行くのかも不明だし、米代川を使うにも羽州街道を使うにも岩手方面へは戻らないと考えます。

泰衡が自害したという結論から考えた結果から、このようなルートが考えられたのかもしれません。

村人たちは多くを語らず、河田次郎のことも史実自体も残しませんでしたが、錦神社、西木戸神社、鎧神社、兜神社・・・この神社たちが存在しているということが、泰衡が生きた証なのではないでしょうか。

まとめ

自分の個人的仮説によって、泰衡が生き延びたことで、地元の人々の錦神社に対する想いをスルーするような文面にとらわれ兼ねないと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが

誰かの何かしらの悲劇や悲痛な思いがあったことは間違いないだろうし

そうったものすべてに対して供養する思いが地元の人々にあふれていたと思います。

泰衡はきっと、「自分はここで討たれたことにしてこの戦いを終わらせよう」と決断したのではないでしょうか?

泰衡からしたら、源頼朝はあまりにもギラギラ、メラメラ、怒りと恨みと敵意が爆発している、〇ちがい武将に見えたかもしれないですね・・・

泰衡は、義経を生かしたって首をとったって、従ったって、抵抗したって、どうしたって自分は頼朝に消されることを知っていたのです。

どうあがいても奥州は源頼朝のものになり、藤原一族は無くなる。

ならば、一人でも生き残ろうではないか。

無駄に命を落とすな。

ニエのサクで、泰衡は家来たちに話したのかもしれません。

河田次郎という人物を作り出したのかもしれません。

大館地区に藤原の名字が多いのは、奥州藤原氏および、泰衡を慕った証しなのでしょう。

錦神社と西木戸神社は、藤原氏が負けて勝つという選択をして、後世の藤原一族の繁栄を願った証しだと思っています。

史実に基づく記事は、こちらにまとめていますのでごらんください。