【大館】火の用心!愛宕神社の見どころ”珍しい相撲彫刻”と歴史を紹介

神社・寺院
記事内に広告が含まれています。

秋田県大館市の市街地にひっそりと佇む「愛宕(あたご)神社」。

一歩境内に足を踏み入れると、城下町の名残や、人々の信仰の息吹が色濃く残る歴史的な場所です。

本記事では、防火・鎮火の神さま「ヒノカグツチノカミ」を祀る愛宕神社の歴史やご利益、お堂で見つけた珍しい「お相撲さんの彫刻」についてご紹介します。

大館の街歩きや神社巡りの参考に、ぜひ最後までご覧ください。

スポンサーリンク

愛宕(あたご)神社とは

愛宕(あたご)神社のご祭神は「ヒノカグツチノカミ」という火の神さまで、防火、鎮火の神さまで、地域の人々に深く信仰されてきました。

全国に愛宕神社は約900社ほどありますが、総本山は京都の愛宕神社です。

「愛宕(あたご)」という響きは、一度覚えるとなんだか耳に残る、魅力的なお名前ですよね。

愛宕信仰は、修験者による山岳信仰と深く結びついており、多くの愛宕神社は山の中に鎮座していました。

そこでは修験者たちが仏事を行ったり、火伏せ(防火)の神を祀ったりしたほか、武士からは「武神」として崇敬され、さまざまな形で人々の信仰を集めて繁栄してきた歴史があります。

江戸時代になり、各地に城下町がつくられるようになると、愛宕神社は城下町の中にある小高い山へと移り祀られるようになりました。

大館の愛宕神社もまた、当時は「ひょうたん山」と呼ばれていた台地に建立されています。

地域の人々からは、親しみを込めて「愛宕さん」の愛称で呼ばれ、守られています。

また、愛宕神社は「坂を上る=運気を上げる・キャリアアップ」という連想から、出世祈願のパワースポットとしても参拝者に人気があります。

祭られている神さま~ヒノカグツチノカミとは

ヒノカグツチノカミ

愛宕神社のご祭神はヒノカグツチノカミで、防火、鎮火の神さまです。

日本の国土を生み出した夫婦の神さま、伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の子どもとして生まれました。

しかし、母であるイザナミは、ヒノカグツチを生んだ際、あまりの熱さに大火傷を負って命を落としてしまいます。

イザナミは亡くなる直前、苦しみ、苦しみながら口や体から色々なものを生み出しました。

それが、のちの「鋳物(金属加工)」や「焼き物(陶器)」に関わる神さまたちです。

火を扱う産業の原点が、ここに描かれているのですね。

愛する妻を失ったイザナギは、悲しみのあまり、なんと我が子であるヒノカグツチノカミを刀で切り殺してしまいました。

イザナミは黄泉の国へ、イザナギは連れ戻すため、イザナミの後を追いかけ…∑(°口°๑)

ドラマチックで悲しくも切ない日本神話へと続いていきます。

さて、切られたカグツチノカミですが、物語はここで終わりません。

飛び散った血から8つの神さま、さらに亡骸の各所からも8つの神さまが誕生しました。(その数あわせて16柱!)

ここで生まれた神々は、激しい「火山」や「噴火で飛び散っている炎」を象徴していると云われています。

大館市の愛宕神社の歴史

大館の愛宕神社が建立されたのは、江戸時代初期の1629年のこと。

最初は現在の場所ではなく、大館城の「三ノ丸」内に建てられました。

創建したのは、養善院尊慶(ようぜんいん そんけい)という修験者(山伏)です。

実は彼、あの美濃の戦国大名で有名な斎藤道三(さいとうどうざん)の息子である斎藤義龍(さいとうよしたつ)を先祖に持つ修験者です。

彼は当時の大館地方で非常に強い影響力を持っており、愛宕神社だけでなく数多くのお堂や社を建てたことでも知られています。

その後、1685年に現在の場所へと移転。

この時の大館城主は「小場義成(おばよしなり)」でしたが、彼のご夫人が熱心な愛宕信仰の持ち主だったことから、この地での建立が始まったと伝えられています。

また、大館城の敷地内に位置していたことあることから、「弓の練習場」としても使われていました。

まさに城下町の歴史とともに歩んできた神社と言えます。

愛宕神社 ~参拝~

愛宕神社へと続く入口に立つと、目の前にまっすぐな上り坂が広がっています。

周辺の起伏が激しくアップダウンが大きいこの地形からは、かつてここが城下町であったことが分かります。

境内へは、東側と西側のどちらからでもアクセス可能。

西側からは急な階段による上り坂になりますが、ゆっくりと一歩ずつ上ってみてください。

愛宕神社 ~参拝~

愛宕神社の境内を進み、お堂(本殿)の前へ。

ここで注目していただきたいのが、屋根を支える「蟇股(かえるまた)」と呼ばれる部分です。

なんとそこには、お相撲さんの彫刻が施されています。

どっしりと腰を据えた様子で力強く屋根を支えている姿は、全国的にも珍しいのではないでしょうか。

このユニークな彫刻を見ていると

「昔、この境内で、奉納相撲が盛んに行われていたのかな」

と、想像が膨らみます。

相撲の起源は「古事記」や「日本書紀」に記録があるほど古く、もともとは純粋な「神事(しんじ)」として始まりました。

奈良・平安時代には天皇の御前で披露されるようになり、鎌倉時代以降に神社での「奉納相撲」として定着していったといわれています。

奉納相撲とは、神さまに真剣勝負を楽しんでもらい、日ごろの感謝や祈りを奉げるための大切な儀式です。

江戸時代に入ると、番付表が作られるなど庶民の娯楽として大流行し、現代の大相撲へと繋がっていきますが、今でも土俵が「神聖な場所」とされるのは、このような歴史があるからなんですね。

普賢神社

愛宕神社の境内には、本殿のほかにもいくつかのお社が鎮座しています。

その中の一つが、こちらの「普賢(ふげん)神社」です。

「普賢(ふげん)」と聞くと、仏教の「普賢菩薩(ふげんぼさつ)」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

実はその通りで、もともとは仏教の仏さまだったのですが、ここでは「神さま」としてお祀りされています。

大日神社

「大日(だいにち)神社」も鎮座していました。

やはり、「大日(だいにち)」と聞くと、仏教の「大日如来(だいにちにょらい)」を、思い浮かべるのが自然ですが、ここでは「神さま」としてお祀りされています。

仏さまを神さまとして祀る

なぜ神社でありながら、普賢菩薩や大日如来という「仏さま」の名前の神さまが祀られているのでしょうか。

その背景には、日本の歴史を揺るがした大きな政治的な転換があったからなんです。

かつての日本には、神さまと仏さまを同じ場所で一緒にお祀りする「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」という信仰が長く根付いていました。

当時の愛宕神社も神さまと仏さまを一緒にお祀りたお堂だったのでしょう。

しかし、江戸後期から神と仏を分離するという思想が広まり、明治時代になると政府から神仏分離令が出されます。

国家として神道を重んじる世の中へと変わり、全国の寺社が厳しく切り分けられることになりました。

中にはお寺や仏像が激しく排除される動き(廃仏毀釈)もありました。

そんな時代であっても、人々は仏さまをただ排除することを選びませんでした。

「それなら、神社の神様(普賢神社・大日神社)へと姿を変えて、これからも一緒にお祀りしよう」と考えたのです。

大切なものを柔軟に守り抜く。

そんな日本人の温かさとおおらかな知恵が、この二つのお社にもしっかりと残っています。

神さまも仏さまも…私見

今でもそうですよね、日本人ってお正月の初詣で神社参拝、お彼岸、お盆にはお墓詣りをし、秋にはハロウィン、冬にはクリスマスを祝う…という。

まさに、なんでもありな文化を持っています。

世界のどこかでは宗教による対立や戦争が起こっている一方、日本でお互いの宗教を否定して激しく戦うことはほとんどありません。

昔から日本には、海外から入ってきたものを拒むのではなく、上手に受け入れて自分たちの暮らしに溶け込ませてしまう特殊能力のようなものがあったのだと感じます。

私はそんな日本の文化が好きです。

白黒ハッキリさせなくても良い、おおらかなグレーゾーンに満ちている。

明治の神仏分離令の際も「仏さまだから排除する」のではなく、「仏さまを神社の神さまに変えて一緒にお祀りしてしまおう」と考えたからこそ、普賢菩薩は「普賢神社」に、大日如来は「大日神社」へと姿を変えて残ったのでしょう。

そんな柔軟で優しい日本人らしさが、私はやっぱり大好きです。

まとめ

いかがだったでしょうか。

今回は大館に鎮座する愛宕神社についてまとめました。

お社の他に、古い歴史を感じる石碑が数多く建っていました。

石碑の裏には弘化の年号も。

弘化とは江戸後期の年号で1845年頃、今から約180年前になります。

庚申の石碑が多く建っていることから、人々が夜通し集った場所であったことが分かりました。

神社から北西を一望できる気持ちの良い場所でした。

愛宕神社の基本情報

  • 主祭神:カグツチノカミ
  • 所在地:〒017-0895  秋田県大館市長倉53