【大館】奥州藤原氏の泰衡を祀る錦神社を参拝~泰衡ご夫人を祀る西木戸神社も参拝

歴史
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秋田県大館市二井田地区に鎮座している「錦神社」についてまとめた記事です。

この「錦神社」は、今から800年以上も前のこと、源頼朝から追われる身となった”藤原泰衡(やすひら)”を祀っている神社とされています。

”藤原泰衡(やすひら)”のご夫人を祀っている「西木戸神社」についてもまとめていますので、ご覧ください。

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藤原泰衡(やすひら)と奥州藤原氏

まず、錦神社に祀られている藤原泰衡(やすひら)についてです。

彼はどういう人物で、どのような生涯だったのでしょうか。

画像はイメージです

藤原泰衡(やすひら)は、奥州藤原氏と呼ばれる平安中期から約百年間続いた豪族で、奥州藤原氏の4代目の当主であり、最期の当主です。

奥州藤原氏は、岩手県の平泉を拠点として、陸奥国と出羽国・・・要するに、東北6県ほぼ全てですね、東北地方を支配していた豪族でした。

平泉は、奥州藤原氏が治めていた領域の中間地点にあって、北上川の水運を利用することで栄えていくことができた場所でした。

また、北上山地では大量の砂金が採取されました。

その砂金を都の権力者に献上することで、奥州藤原氏が治めている領域には干渉しないよう働きかけたのだそうです。

ということで奥州藤原氏は、独立した状態を維持し続けたことから「黄金の百年」と言われました。

ちなみに奥州藤原氏と朝廷の元で貴族になった藤原家についてですが

同じ時代に別々の場所で栄えた藤原氏、ということになります。

双方の藤原氏は、同じなのかどう違うのか、と思う人もいるかもしれませんた、元を辿れば同じ先祖を持ちます。

ですが先祖が同じで遠縁ではあるものの、奥州藤原氏が確立してからは別扱いとしています。

奥州藤原氏が残したもので有名なのが、「中尊寺金色堂」です。

奥州藤原氏はたった4代で絶えてしまいましたが、その間の繁栄っぷりは見事なものでした。

で、話は戻り、藤原泰衡(やすひら)はそんな所で生まれた正妻の子だったので、生まれたときから何不自由なく暮らしていただろうと思います。

容姿は、顔、体もしっかりしていて、温厚で貴族らしい風貌だったそうです。

貴族や政治家とのお付き合いも上手だったとか。

泰衡(やすひら)は次男で、国衡(くにひら)というお兄さんがいましたが、泰衡(やすひら)が奥州藤原家の当主となりました。

理由は、泰衡(やすひら)は正室の子で、母の身分が高く、一方兄の国衡(くにひら)は側室の子だったからです。

また、泰衡(やすひら)と国衡(くにひら)、あまり仲が良くなかったようです。

それを心配した父の秀衡(ひでひら)は、国衡(くにひら)と泰衡(やすひら)に

「いずれ源頼朝が攻めてくる。仲違いしている場合ではないぞ。源義経を大将として2人協力し、奥州藤原一族を守るように」

と言いました。

しかし、その願いもむなしく、奥州藤原氏は滅亡、泰衡は自分の家来に裏切られ35歳で生涯を終えました。

奥州藤原氏の最期

奥州藤原氏の最期となるきっかけとなったのは、あの有名な義経が源頼朝に嫌われてしまった事件ですね。

源頼朝の命令によって義経は追われる身となり、義経は幼少の頃に育った奥州藤原氏の元に身を寄せることになりました。

源頼朝の

「義経の身柄を引き渡せ」

という命令に対して、その時の当主であった父”藤原秀衡(ひでひら)”はのらりくらりと返事を先伸ばししていました。

1187年、父の藤原秀衡(ひでひら)が病気になりこの世を去り、泰衡(やすひら)が当主となります。

父の秀衡(ひでひら)の死後2年ほどは、泰衡もなんとか頼朝が言っていることをかわしていましたが、1189年、とうとう源頼朝の「義経を引き渡せ」の圧力に耐えられなくなってしまいました。

そして泰衡は義経の殺害を決断、義経のいる衣川の館を襲いました。

義経は衣川の館に火を着け、家族と共に自害したと伝えられています。

その後はこうです。

 ‣泰衡  「頼朝様、義経を討ちました!(平泉襲撃とか勘弁してください)」

 ‣頼朝  「は?討てとは言ってない、私が討つ予定だったのだ」

 ‣泰衡  「・・・・・・(*_*)」

”源頼朝の怒りを買った”ということで、頼朝軍は鎌倉から大軍で奥州に攻め込みました。

28万以上の大軍、奥州藤原氏に勝ちめなどありません。

兄の国衡(くにひら)は合戦にて討ち死、泰衡(やすひら)も撤退し、泰衡が自ら平泉に火を放ち、逃亡しました。

豪華な邸宅、極楽浄土に訪れたかのような毛越寺(もうつうじ)、無量光院(むりょうこういん)などが灰となりました。

毛越寺(もうつうじ)の庭園

藤原泰衡(やすひら)の逃亡と最期

平泉の栄華を極めた館に火をかけ、数千の軍兵にかこまれつつも、いつの間にか姿を消してしまった泰衡(やすひら)が、ほど経て現れたところが大館地区にある肥内(ひない)ニエのサクでした。

肥内は現在の比内町の旧称となるので、以後、比内とします。

比内には河田氏という、昔から代々奥州藤原氏に従っていた家臣がいて、奥州藤原氏に代わって大館地区を支配していました。

泰衡は、最初は北海道方面へ逃げようとしたものの、わずかな希望にたよって一度は北に向かった道を南下し、なんと”河田次郎(かわたのじろう)”を頼りにしてきたのでした。

この場所は、米代川に沿った交通の要点となる所であったことからも、泰衡としては形勢を伺いつつ、立て直すには良い場所だと考えたのだと思います。

源頼朝にも、今まで自分が行ってきたことを弁解する手紙を比内から送っています。

‣今までのことは父の秀衡(ひでひら)が行ってきたものだ

‣奥州領土を差し上げ従いますので、部下にしてほしい

‣島流しでも構わない、この命お助けください

それも受け入れられず、結局は家来の河田次郎の裏切りにあって殺害されてしまいました。

ここ、さらっと述べましたが泰衡の最期を記述するには資料が少なすぎたこともあり、あっけない様子になってしまっています。

地元の人々の言い伝えによると、河田次郎は

「泰衡をかくまって罪になるより、泰衡を討って頼朝の恩賞を」

と考えたことから泰衡を討つ計画を立てたのだそう。

1189年9月3日の夜、河田次郎は多くの家来を使って、泰衡の周りを取り囲み、頼朝の大軍が攻め込んだように見せかけました。

泰衡が観念し、切腹するように仕向けさせたのです。

この計画が成功し、泰衡が自害したので河田次郎は泰衡の首をはねました。

大手柄を立てたと思った河田次郎、泰衡の首を頼朝の陣がいる岩手県紫波町まで届けました。

が…

頼朝は

主の恩を忘れて命をうばい、のみならずその首を売って賞にあずかろうとは何たる奴だ。

お前ごときに頼らずとも、わし自ら処分できるわ!

河田次郎もまた、頼朝の怒りを買い「主殺しの不忠者」として斬殺されました。

頼朝は、泰衡の首をさらし、奥州合戦の勝利宣言を行いました。

錦神社(にしきじんじゃ)とは

錦神社とは、大館市二井田(にいだ)にあって、泰衡(やすひら)の最期をあわれんだ村人たちが泰衡を祀った社殿のことです。

泰衡が討たれた後、村人は首のない泰衡の遺体を錦の直垂(ひたたれ)に大事に包み、大きな石でもって埋葬しお墓としました。

埋葬したお墓は「にしき様」と呼ばれ、錦神社となりました。

よって錦神社は大きな石をお祀りしています。

直垂(ひたたれ)

直垂(ひたたれ)とは主に鎌倉時代の武士が身に付けていた着物のことです。

日本相撲の行司さんも着ていますね。

それからというもの、錦神社では泰衡の命日である9月3日に慰霊祭が二井田地区に人々によって行われ続けています。

泰衡の死後800年以上も経った今も、当時と変わらず供養を続けているんですね。

近年は、錦神社のことを知った中尊寺と毛越寺のご住職さまにも慰霊祭に参列していただいてるそうです。

錦神社 ~参拝~

道路沿いに看板が見えます。

神社の前のスペースは駐車場ではないので、ご注意ください。

案内の指示にしたがって行くと、近くに広い駐車スペースがあります。

花壇が添えられており、拝殿前の松の木もキレイでした。

自身、調う感じがします。

鳥居をくぐってすぐ左側には蓮池があります。

これは、中尊寺の泰衡の首桶に入っていた蓮の種を発芽させたもので、株分けしていただいた蓮の花となります。

社殿です。

扁額(へんがく)には「錦神社」

扉のところには「ご自由にお入りください」と書かれています。

中央の大きな石が、泰衡のお墓としていたものです。

左が神馬(しんめ)、右が供養塔です。

蓮です。

参拝した日は11月だったので、夏の花の見ごろの時にまた訪れようと思います。

西木戸神社(にしきどじんじゃ)とは

西木戸神社とは、大館市比内町にあって、泰衡のご夫人を祀っている社殿のことです。

藤原泰衡(やすひら)のご夫人は、泰衡を慕い、平泉からはるばる大館の地まで彼の後を追って来たものの、すでに泰衡が亡くなってしまったことを知ります。

すべてを失ったような気持ちになったご夫人、やはりニエのサク付近で自ら命を絶ってしまいました。

また連れてきた子ども3人も共に旅立ったというのですから悲劇すぎですね。

村の人はこの出来事についても、同情しあわれみ、五輪の塔を建立し泰衡のご夫人を供養しました。

五輪の塔(供養塔)

五輪の塔を建てた所の地名は、やがて五輪台と呼ばれるようになり、神社は「西木戸神社という名前に変わりました。

西木戸神社という名前になった理由としては、泰衡の兄である国衡(くにひら)の通称名が「西木戸太郎国衡」であったからで、この地域は国衡(くにひら)が管理していたことから、西木戸神社」となりました。

西木戸神社 ~参拝~

11月の参拝でした。

まだ雪は降っていませんが、冬支度が整っていました。

拝殿内も丁寧にお祀りされていました。

まとめ

いかがだったでしょうか。

今回は、奥州藤原氏の最後の当主となった藤原泰衡(やすひら)の最期についてと、錦神社、西木戸神社についてまとめました。

奥州藤原氏の4代目、藤原泰衡氏が大館地方に深く関係していたとは、驚く人もいたかと思います。

そういえば、大館の比内地区やその周辺に”藤原”という名字は多いように思います。

もしかすると、藤原泰衡をはじめその家来、側近など、奥州藤原氏に関わる多くの人々が大館に逃れて来たという証しなのかもしれませんね。

800年以上も昔の出来事なので、文書として残されていることは少ないですが、そこにあるもの、人々が現代まで語り継いできたものに間違いはないと思います。

800年以上も続けてこられた慰霊祭、ご供養、神社等の建造物の維持に関係するご奉仕、地元の方々の強く優しいお気持ちに感動しました。

参考文献資料:吾妻鏡、大館の歴史

詳細情報

錦神社

住所  秋田県大館市二井田字上出向17
注意事項    指定の駐車場がありますので、案内板にしたがって駐車してください      

西木戸神社

住所  秋田県大館市比内町八木橋字五輪台127
注意事項    境内は私有地につき、参拝するには許可が必要となります