【大館】秋田三鶏を守り抜いた山田定治とは?比内鶏天然記念物への道のり

おはなし
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日本三大美味鶏の一つ「比内地鶏」で知られる大館。

そのルーツとなった「比内鶏」が天然記念物であることを知っていますか?

そして、「比内鶏」をはじめとする秋田三鶏(あきたさんけい)の保存に人生をかけた人物がいました。

その人物が、鶏研究家である山田定治氏です。

この記事では、次の6つについて解説します。

・山田定治とはどんな人物だったのか

・秋田三鶏とは何なのか

・なぜ天然記念物になったのか

・山田定治は何をしたのか

・比内鶏と比内地鶏の違い

・現在の秋田三鶏へどうつながっているのか

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秋田三鶏(あきたさんけい)とは?

まず、「秋田三鶏(あきたさんけい)」とはなんでしょうか?

初めて耳にする方もいるかもしれません。

「秋田三鶏」とは、国指定天然記念物である声良鶏(こえよしどり)・比内鶏(ひないどり)、秋田県指定天然記念物の金八鶏(きんぱどり)の三鶏を総称した呼び名です。

秋田県の県北地方、特に大館地方や、米代川付近で古くから飼われていた鶏たちです。

鶏天然記念物指定年特徴
比内鶏国指定天然記念物1942年勇壮な姿・比内地鶏のルーツ
声良鶏国指定天然記念物1937年長く美しい鳴き声
金八鶏秋田県指定天然記念物1959年小柄で闘争性が強い

秋田三鶏 比較表

比内鶏のツガイ

声良鶏のツガイ

金八鶏のツガイ

秋田三鶏(比内鶏・声良鶏・金八鶏)について更に知りたい方はこちらをご覧ください。

そして、この秋田三鶏を守るために大きな役割を果たした人物が、山田定治氏なのです。

山田定治は何をした人?

山田定治はどんな人?

山田定治氏

秋田三鶏(比内鶏・声良鶏・金八鶏)の保存と研究に打ち込み、天然記念物への指定を働きかけた山田定治さんの人物プロフィールをまとめました。

山田定治の人物プロフィール

・1898年、大館市で生まれる

・営農指導員(農協と生産者の間に入る農業アドバイザー)となる

・鶏の展示会で比内鶏と声良鶏の魅力に気が付く

・秋田県種鶏場に勤務しながら鶏(にわとり)の研究を行う

・鳳鳴高校の事務官を務める

・数々の賞を授賞する

・「秋田三鶏資料庫 山田記念館」を自宅に設立

山田定治さんの幼少期

山田定治さんは明治31年(1898年)、常盤木町で父・長五郎さんの三男として誕生しました。

実家が農家だったこともあり、幼少期から多くのニワトリに囲まれて暮らしていたそうです。

子どもの頃は、学校へ行く前にニワトリへ餌をやるのが定治さんの日課でした。

早朝のニワトリの世話は、特に厳しい寒さの冬場には大きな苦労が伴いました。

山田定治がニワトリの研究を始めたきっかけ

 大正10年(1921年)、営農指導員(農協と生産者をつなぐ、農業アドバイザー)となった定治さんは、鶏とウサギの飼育を担当することになります。

その折、東京の上野公園にある「竹の台陳列館(※明治末期から大正期にかけて美術展などに使われた施設)」で家畜共進会が開催され、定治さんは秋田県の鶏の管理人に任命されました。

会場には全国から多様な自慢のニワトリが出品され、秋田県からも「比内鶏」と「声良鶏」が雄姿を競いました。

定治さんは、一堂に集まったニワトリを見て、「比内鶏」と「声良鶏」が全国のどのニワトリにも見劣りしないことに気づきます。

「よーし、おれはこの2つの鶏を全国一にしてみせるぞ!」

この出来事をきっかけに、定治さんは秋田三鶏の愛育と研究の道へ情熱を注ぐようになりました。

秋田三鶏が絶滅の危機に

しかし、定治さんが秋田三鶏の研究を本格化させた矢先、日本鶏全体を揺るがす大きな危機が近づいていました。

絶滅寸前にまで追い込まれた背景には、次のような時代的要因がありました。

・外来種の大量輸入による日本鶏の追いやられ

・鑑賞用ではなく食料として消費されてしまったこと

・飼育者の減少に伴う個体数の激減

・追い打ちをかけた太平洋戦争による深刻な食糧難

山田定治が行った秋田三鶏の保存活動

比内鶏の純種を探し歩く

奉納 比内鶏写実絵 (イメージ画像)

定治さんが研究を始めた当時、純粋な特徴を残す比内鶏・声良鶏は極めて少数にまで減っていました。

そこで定治さんは、純型を求めて北秋田の阿仁地方をはじめとする県内奥地へと足を運びます。

その最中、鹿角郡毛馬内のある神社に納められていた古画「比内鶏写実絵」と、運命的な出会いを果たします。

彼はこの写実絵を手がかりに純型を探し、純粋交配を重ね、探し回ること実に25年もの歳月をかけて保存活動に情熱を注ぎ続けました。

日本鶏の飼育と交配を研究

竹の台陳列館での任期を3年で終えた定治さんは、大館へ戻るとすぐ自宅へ鶏舎を建て、自ら飼育と研究を開始しました。

さらに昭和7年(1932年)、大館市に県立種鶏場が設立されると、収入が減るリスクや、家族の反対を押し切って転職を決意。

県立種鶏場で日本鶏の飼育担当となり、本格的な研究へと足を踏み入れました。

天然記念物指定にむけて保存会を結成

定治さんは、比内鶏・声良鶏を天然記念物に指定させるため、「比内鶏・声良鶏保存会」を設立しました。

定治さんが各方面へ精力的に働きかけたことで、その取り組みは次第に広く認知されるようになります。

東京大学農学部の鏑木(かぶらぎ)教授からは激励の手紙が届き、さらには鏑木教授を大館に招いて比内鶏・声良鶏の生息状況を本格的に調査することが決定しました。

また、当時東京府知事であった横山助成氏(大館出身)からも、温かい手紙とともに活動支援金が贈られました。

山田定治のここがすごい功績5選

定治さんは秋田三鶏を守るため、様々な事にチャレンジし、結果、数々の賞を授賞しました。

ここでは、すごい功績を5つにまとめています。

天然記念物の比内鶏を動物園へ寄贈

 昭和31年(1956年)、定治さんは、当時千秋公園にあった秋田市立動物園へ、天然記念物に指定されていた比内鶏のつがいを寄贈しました。

すべての比内鶏が天然記念物に指定されるわけではなく厳しい条件があるため、当時、定治さんが手元で飼育していた天然記念物指定の個体はわずか一羽のみでした。

それにもかかわらず、その貴重な一羽を動物園へ贈る決断をしたのです。

◆定治さんのコメント

「手放すのがは惜しいという思いもありましたが、動物園でより多くの子どもたちの役に立てば幸いです。これを機に、これからも良い鶏を育てていきたいと思います」

昭和37年(1962年)7月、山田さんは伊勢神宮へ天然記念物である比内鶏のつがいを寄贈しました。

「全国から参拝客が集まる伊勢神宮の内宮で放し飼いにしてもらい、比内鶏の素晴らしさを広く知ってもらいたい」

という想いからの行動でした。

当時、伊勢神宮内に放し飼いにされていたのは関西地方の「東天紅」や「チャボ」のみであり、関東以北のニワトリが放たれるのは史上初の出来事でした。

神宮では、比内鶏が到着するとすぐに神楽が奏でられ、奉納されました。

翌8月には、伊勢神宮(神楽殿内宮林)より奉納に対する感謝状と記念品が、定治さんの元に届きました。

お供えした際に使用した大ヌサや神饌(しんせん)(神さまへのお供え物)も合わせて届きました。

◆定治さんのコメント

無事に到着し、神域で育てられていると聞いて嬉しく思います。

贈られてきた神饌(しんせん)も立派なものばかりで、思いがけない出来事に感動しています。

退職金で「ふ化場」を建設

声良鶏や比内鶏などの天然記念物は、売買や食用としての利用が禁じられています。

そのため、飼育にかかる経費ばかりがかさみ、収入が得られないことから飼育者は減る一方でした。

この現状を強く危惧した山田さんは、「大館声良鶏・比内鶏保存会」を再結成。

さらに県に対しても、人工増殖に必要なふ化場の設置を積極的に働きかけました。

そして昭和39年(1964年)、高校の事務官を退職した定治さんは、自身の退職金を投じて自宅敷地内に「県立声良鶏ふ化場」を建設します。

ここで何百羽ものふ化を成功させ、絶滅の淵にあった秋田三鶏の保存活動を本格的に軌道に乗せました。

数々の賞を授賞・功労金を寄付

定治さんは、日本地鶏の保存と社会教への多大な貢献が認められ、数々の賞を授賞されました。

●昭和36年(1961年):県教育功労表彰

●昭和45年(1970年):文化庁長官賞を受賞(皇太子ご夫妻がご出席される中、ニワトリ関連で全国唯一の表彰)

●昭和49年(1974年):県文化功労章を授賞

昭和49年に「県文化功労章」を授賞した際、贈られた功労金を全額そのまま「三鶏記念館」へと寄付されました。

◆定治さんのコメント

今回の受賞は私個人のものではなく、三鶏保存会員の努力があったからこそ。

いただいた功労金を三鶏記念館に寄付し、鶏に関する新たな資料や学会誌を揃えるなどして充実させていきたい。

比内鶏から比内地鶏を作出

当時、世間では「きりたんぽブーム」が到来していました。

大館市でもこの波に乗り、比内鶏の一代交配鶏の増産計画(比内鶏から比内地鶏を生み出す)が進められます。

きりたんぽ鍋の味の決め手は、なんといっても出汁や具材となる鶏肉の旨味。

そこで定治さんは、比内鶏と相性の良いメス鶏の研究を重ね、野鳥のような比内鶏独自の風味を活かした「きりたんぽ専用の鶏」を生み出すことに成功しました。

なお、当時は外来種の「ゼンタック」が最も適しているとされていましたが、現在は「ロードアイランドレッド」のメス鶏との交配が行われています。

比内鶏と比内地鶏は同じもの?

「比内鶏」は国の天然記念物として指定・保護されている鶏です。

よって、原則として食用出荷はされていません。(※学術・飼育上の区分はありますが、現在市場に出回ることはありません)

一方、現在食用として知られている「比内地鶏」は、比内鶏を父系に用いた食用の鶏で、私たちが普段お店や飲食店で口にしているものになります。

比内地鶏は「日本三大地鶏」「日本三大美味鶏」の一つとして全国的に高く評価されています。

山田定治が秋田三鶏に残したもの

暁に 声聞く毎に 我が子等の 伸びゆく姿 眼に映るなり

この歌は、定治さんが喜寿(77歳)を迎えた際に詠んだものです。

昭和47年(1972年)に建設された「山田記念館」の館長に就任した定治さんは、ニワトリに関する執筆活動や記念館内の見学者の案内など、多忙な日々を送りました。

そうした過密なスケジュールの合い間を縫っては、資料の収集と整理に没頭します。

「先人がどのような功績を残したのか」に思いを馳せ、「貴重な文化遺産を後世へ正しく伝えたい」という一心で、日夜努力を重ねていました。

生涯にわたり、定治さんのニワトリに対する情熱が衰えることはありませんでした。

山田定治は、単に鶏を飼育していた人物ではありません。

日本鶏が減少していく時代に、比内鶏・声良鶏などの保存に取り組み、天然記念物として後世に残すための活動を続けました。

さらに、鶏のふ化や研究、資料収集にも力を注ぎました。

その活動の積み重ねが、現在の秋田三鶏の保存にもつながっています。

現在の秋田三鶏記念館へ

大館市には、比内鶏・声良鶏・金八鶏という「秋田三鶏」を間近で見ることができる施設「秋田三鶏記念館」があります。

この施設は定治さんの意思を受け継いだ施設で、2010年に大館郷土博物館敷地内に設立されました。

秋田三鶏のツガイを見学することができるほか、秋田三鶏をはじめ日本鶏の資料が展示されており、天然記念物としての血統を守り、秋田三鶏を知ってもらうことを目的としています。

山田定治の生涯・年表

西暦(和暦)年齢事柄
1898年(明治31年)0大館市常盤木町に生まれる
1917年(大正6年)  19北秋田群立農蚕講習所に入所
1921年(大正10年)23北秋田群立農蚕講習所を卒業
比内鶏の研究を始める
大館の農会農業技術員になり養鶏とウサギの飼育をする
1922年(大正11年)24「竹の台陳列館」の銘鶏管理人となる
1930年(昭和5年)32比内鶏の保存活動を進める
1932年(昭和7年)34秋田県種鶏場に勤務
1937年(昭和12年)39声良鶏が天然記念物に指定される
1941年(昭和16年)43鳳鳴高校事務官勤務・小動物 飼育指導係
1942年(昭和17年)44比内鶏が天然記念物に指定される
1955年(昭和30年)57比内鶏、声良鶏の第1回展覧会開催
1956年(昭和31年)58比内鶏を秋田動物園に寄贈
1958年(昭和33年)60金八鶏が県の天然記念物に指定される
1960年(昭和35年)62大館鳳鳴高校事務官を退職
1961年(昭和36年)63県教育功労者表彰
1962年(昭和37年)64伊勢神宮に比内鶏を奉納
伊勢神宮から感謝状
1963年(昭和38年)65大館声良鶏・比內為保存会を再結成・会長に就任
1964年(昭和39年)66自宅に県立声良鶏孵化場を建設
1965年(昭和40年)67比内鶏の一代交配種の作出成功
1970年(昭和45年)72文化庁長官賞を受賞
1972年(昭和47年)74天然記念物秋田三鶏資料収蔵庫山田記念館の完成
1974年(昭和49年)76県文化功労章を授賞
功労金のすべてを秋田三鶏記念館に寄付
1983年(昭和58年)85永眠
2010年(平成22年)大館郷土博物館の敷地内に秋田三鶏記念館完成

まとめ

山田定治さんはこんな人
  • 山田定治は、秋田三鶏の研究・保存に生涯をかけた
  • 秋田三鶏を国や県の天然記念物指定に導いた
  • ふ化場を建設し、何百羽もふ化させた
  • 比内鶏から比内地鶏を作出した
  • 数々の賞を受賞した

あわせてよみたい

山田定治さんが守った秋田三鶏や、秋田三鶏記念館を訪れると、大館の歴史や文化をより深く知ることができます。

大館を観光するなら、こちらの完全ガイドも参考にしてみてください。